(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

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月日 事項 年表種別
大正5年(1916) 9月12日 鳩山秀夫《日本債権法総論》刊―鳩山秀夫氏は岩波茂雄の高等学校時代の友人であり、学生時代から秀才の名が高かった。債権法に関する解釈法学をほとんど完全に近く作り上げた人といわれる。後に総論のみならず各論をも著わし、驚くべき多数の読者をもった。この書は岩波書店の法律関係出版物として最初のものである。 岩波書店
1926年 - このころ店員は41人、編集の仕事は岩波自身を中心にごく少数の店員で運ばれ、しかも1年に100冊近い新刊書を出し、ほかに雑誌数種類を発行していたのである。出版書は概ねいわゆる堅い本であって、大部数の売行きを期待できないものであったが、それにもかかわらず岩波書店が堅実に成長していったのは、当時の出版事業が一般に現在と趣きを異にしていたからである。岩波書店の実例についていえば、大部分の出版物は初版1000部あるいは1500部のものであったが、中に哲学叢書や、倉田百三・西田幾多郎・鳩山秀夫氏等の著作の如くたえず増刷されるものがあって、それが高率の利益をもたらした。また漱石全集が岩波書店の経営に寄与したことも大きかった。なお従業員が少数で総じて経費が少くてすんだこと、また宣伝が非常に小規模であり、税率も低く、負担が軽かったこと―このような今日とは異なるいくつかの条件のために“出版業は利益を追及する仕事ではない”という理想主義の態度を持して、しかも経営を成長させてゆくことができたのである。 岩波書店
昭和3年(1928) 9月10日 大倉書店主大倉保五郎氏、夏目純一氏および岩波茂雄に対し、損害賠償要求の訴訟を提訴―大倉書店は1905年漱石との間に著作権共有、発行権専属の契約を結んであったにもかかわらず、岩波書店より普及版漱石全集が同書店に無交渉で刊行されたため損害をうけたという理由からであった。要求額は3万5000円。従来漱石全集は大型のみが発行されており、それについての諒解は漱石全集刊行会で得ていたのであるが、普及版を出すことについては諒解を得ていなかった。提訴はこれについての抗議であった。岩波書店は鳩山秀夫氏を弁護人として対処し、結局8月30日に《吾輩は猫である》以下大倉書店発行の漱石の著作4点の出版権を1万円で買いうけることによって示談となった。 岩波書店
昭和8年(1933) 3月 岩波文庫、内村達三郎訳《イミターショ・クリスチ》(1928.7.10刊)を絶版―この書が、岩波書店に断りなく、春秋社から春秋文庫の1巻として、書名を《基督のまねび》と変えて出版され、かつその巻末に訳者内村達三郎氏の岩波に関する誣妄の文章が掲載されていたので、岩波書店はただちに春秋社を告訴し、文庫版のこの書を絶版にした。同時に《思想》その他に声明書を出した。この訴訟は1937年10月、5年ぶりに岩波側の勝訴となり、春秋社が新聞に謝罪広告を出すことによって結着、弁護士は鳩山秀夫氏であった。 岩波書店
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