第一生命保険(相)『第一生命100年の歩み : すべては、お客さまと共に』(2002.04)

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提携合併 昭和生命の包括移転 [昭和8年(1933年)7月~昭和16年(1941年)12月] 写真、日本医師共済生命が昭和生命と改称し、5相互会社が大合同の合意に至ったことを伝える新聞広告(『東京朝日新聞』昭和8年7月2日付)、石坂[泰三]社長は元昭和生命職員へ「家族として迎える」とあいさつした(昭和16年12月)、元昭和生命職員に辞令を交付する稲宮[又吉]取締役(昭和16年12月)、元昭和生命社員と当社職員の懇親会(昭和16年12月、稲宮[又吉]取締役、戦後社長となる矢野一郎取締役)、昭和生命の商品パンフレットと包括移転許可証 p42
経営 戦争による打撃と再出発 [昭和20年(1945年)9月~昭和22年(1947年)11月] 写真、退任する直前の第46回社員総代会であいさつする矢野[恒太]会長(昭和21年11月)、戦時補償の打ち切りを伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和21年9月8日付)、生保各社の第2会社設立を伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和22年5月15日付)、当社新発足の公告(昭和22年11月)、社長に就任した矢野一郎、アメリカのインシュアランスウィークにならって昭和22年より11月が「生命保険の月」となる、外地からの引揚げ職員や戦死した職員の遺族に対して救護金などの援助を行った。それに対する受領証と礼状、矢野恒太の自宅は戦争で家を失った職員の寮として利用された p52
生命保険 インフレ下の苦悩 [昭和20年(1945年)~昭和25年(1950年)] 写真、国民経済の見地からインフレ防止のために保険加入をすすめたパンフレット、昭和23年5月に新設した「優績クラブ」の入賞者、昭和24年末から25年初めの駅頭広告、この時期発売された新種保険のパンフレット、矢野[一郎]社長が契約した無診査保険の第1号証券、ご契約者に配布した「第一生命の近況御報告」、昭和25年ごろの「こども保険」の立て看板 p54
経営;催し 事業の再建 [昭和26年(1951年)~昭和32年(1957年)] 写真、第一生命館6階の「第一生命ホール」における創立50周年式典(昭和27年9月15日)、棚上げ契約の返済内定を伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和31年8月7日付)、その返済風景、第一生命館への本社復帰広告と返還受領式であいさつする矢野[一郎]社長、この頃制定された社名マーク、昭和32年の支社長会議、民間ラジオ放送の開始とともに昭和26年11月から「音楽の星座」を提供した。 p56
社会貢献 公衆衛生に対する貢献 [昭和25年(1950年)~昭和28年(1953年)] 写真、第1回保健文化賞贈呈式で祝辞を述べるGHQ公衆衛生福祉局長 サムス准将、朝日新聞東京本社講堂で行われた第2回保健文化賞贈呈式(昭和26年2月)、第2回保健文化賞審査委員会、第1回保健文化賞贈呈式で矢野[一郎]社長から第一生命賞を受ける受章者(昭和25年3月21日)、保健文化賞の記念品。公衆衛生院生への奨学金提供に対する厚生大臣からの感謝状[(昭和28年6月)]、千代田村における検診の風景 p58
売上;営業 保有契約10兆円達成 昭和33年(1958年)~昭和45年(1970年) 写真、「10兆円達成3か年計画」進発のポスター(昭和43年)、高田馬場の研修所と研修所から募集に出発する職員、研修所修了生に終了バッチをつける矢野一郎社長、月掛支社の営業所における地区主任会議(昭和39年)、デビット制度の営業職員の募集広告(昭和33年)、昭和39年ごろの支部風景、[東京・烏山に]完成直後の[総合教育施設「第一生命修練所見心寮」](昭和44年)、10兆円達成の垂れ幕がかかった第一生命館(昭和45年) p64
事業所;表彰 大井本社の建設 昭和40年(1965年)~昭和43年(1968年) 写真、上棟式で検鋲の儀を行う矢野[一郎]会長(昭和40年12月2日)、東京本社から大井本社への移転風景、大井本社と東京本社を結ぶ連絡車第1号便、地域住民とのよりよい関係を築くために発行された親睦雑誌『むらさき』、自然環境に恵まれた大井「第一生命館」、当時の大井本社施設配置図、最優秀防火建築物に選ばれ、建設大臣賞を受けた(昭和43年3月)、各階間で書類のやり取りを行うエアシューター、事務室風景 p70
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