第一生命保険(相)『第一生命100年の歩み : すべては、お客さまと共に』(2002.04)

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役員;従業員 明治38年の役職員 明治38年(1905年) 写真、取締役・大橋新太郎、社長・柳沢保恵、監査役・浜口茂之助、塩田進、新免弥継、高輪守幸、専務・矢野恒太、石岡繁太郎、鈴木六郎、野閒謹爾、石川善太郎、後藤徳太郎、松崎故一郎 p3
生命保険;経営者 相互主義との出会い 明治13年(1880年)~明治26年(1893年) 写真、岡山時代の矢野[恒太]、明治24年の日本生命役職員集合写真、[矢野が保険研究の集大成として明治26年11月に発表した小冊子]『非射利主義生命保険会社の設立を望む』、日本生命時代の[矢野の]自筆診査報状、日本生命辞職の新聞広告、『保険論』と[矢野の]勉学ノート p6
経営理念;役員 創業―理想の保険会社を [明治34年(1901年)12月~明治35年(1902年)9月] 写真、「保険相互会社主唱之辞」、普通保険約款案、110名の原始社員名簿(矢野恒太と発起人藤山雷太の名前がある)、[創立当初の役員等] [第百銀行の取締役支配人・]池田謙三、[第百銀行の元頭取・]原六郎、[森村銀行、東洋陶器、日本碍子、日本陶器等の設立者・]森村市左衛門、[取締役、出版界の王者、博物館の館主・]大橋新太郎、[服部時計店の開業者・]服部金太郎、[監査役、銚子醤油の設立者・]浜口茂之助、[社長。伯爵・]柳沢保恵、創立総会決議録 p10
経営理念 創立時の「我社の特色」 [明治35年(1902年)10月~明治38年(1905年)] 写真、「我社の特色」(初版は明治35年7月9日)、新右衛門町社屋の借家証、新右衛門町社屋(現在の日本橋高島屋裏通りあたり)、「要領」(初版は明治38年11月ごろ)、代理店希望者が後を絶たなかったため当社は代理店を採用しないことを広告した、矢野恒太が契約者となった保険証第1号(定款や約款を含めて1冊の冊子にした) p12
経営 苦闘から躍進への準備 [明治36年(1903年)~明治44年(1911年)] 写真、職員名簿、創業時の出勤簿、日本橋区通3丁目の本社社屋、通三丁目本社の専務室での矢野[恒太](明治44年)、明治37年4月から使用を始めた募集資料「最良の貯蓄法」には以後長期間にわたって使用された「確実・親切・低廉」のモットーが掲げられている。明治37年ごろの募集資料 p14
経営理念 相互主義のひろがり [明治35年(1902年)5月~昭和20年(1945年)] 写真、第一火災保険相互会社発起認可申請書、矢野が考えていた第一火災保険の社章のイメージ、第一火災保険相互会社定約款(明治35年5月5日)、「余が理想の火災保険会社(矢野恒太)」、「新しきこころみ」(大正10年の正月に矢野が年賀状代わりに配布した小冊子)、「第一相互館」1階にあった第一相互貯蓄銀行の玄関、第一相互貯蓄銀行創業時の営業案内 p16
出版 矢野恒太の著述活動 [明治26年(1893年)3月~昭和27年(1952年)9月] 写真、『ダイヤモンド論語』(6cm四方で携帯に便利)、渋沢栄一(常にチョッキのポケットに携帯し、革装がボロボロになると矢野に新品を請求した)、ポケット論語とその広告、『金利精覧』、『芸者論』、『日本国勢図会』(昭和2年に矢野が編纂した統計解説書)、矢野恒太主要著作一覧(書名と発行・発表年月) p18
経営 最良か解散か [明治43年(1910年)~大正4年(1915年)] 写真、大正2年ごとの全国地方部長会議での記念写真、この頃制定された「服務心得」、矢野[恒太)が当時好んで使った「安全第一」という言葉を表題にした募集資料(大正5年)、大正3年12月に創刊されたコンニャク版の社報、社員(ご契約者)に紹介を依頼したチラシ「社員諸君に日す」、営業職員に配られた募集上の注意書き(大正4年) p24
経営;業界 5大生保の一角に [大正4年(1915年)~大正15年(1926年)] 写真、4分5厘の高率配当をうたった募集資料(大正12年)、「我社の貯蓄的生命保険」と題した加入勧奨のはがき(大正15年)、大正14年度の生保各社の業績を比較した資料、矢野[恒太]社長就任直後の朝鮮半島への出張。石坂泰三[取締役]と稲宮又吉[取締役]、『社報』大正8年12月号の記事「一億円には何時なる?」、大正11年ごろの支部長会議、増加するサラリーマンを対象に当初の保険料を安く設定した「出世保険」(大正9年発売)のパンフレット p26
経営 昭和発展期 昭和2~20年(1927~1945) 昭和14年(1939年)1月 昭和14年(1939年)1月に第一生命館で行われた「新館落成記念募集有績者招待会」であいさつする矢野[恒太]会長、石坂[泰三]社長(6階の集会室にて) p33
生命保険;経営 「高配」主義と「低料」主義 [大正15年(1926年)~昭和12年(1937年)] 写真、『社報』に頻繁に寄稿された契約者配当に関する記事(昭和2年4月号)、高配・低料問題について矢野[恒太]が寄稿した「配当付保険料と低保険料の優劣論」(『経済往来』昭和2年10月号)、「貯蓄的生命保険」を訴えた募集資料、略奪(掠奪)募集問題を伝える業界紙(『保険銀行時報』大正15年6月6日付)、東京支部の優績祝賀会における渡幸吉東京支部長(昭和12年)、当社の経営効率の良さがうかがえる生命保険会社業績一覧(昭和11年度)、当時の新聞広告 p36
事業所;設備 第一生命館の完成 [昭和10年(1935年)~昭和14年(1939年)] 写真、潜函工事に入る前の実験堀りと思われる建設現場(昭和10年1月)、「日本一長いのは東京駅、高いのは国会議事堂、深いのは第一生命館」という矢野[恒太]の言葉を図示した落成記念のパンフレット、落成を記念して開かれた営業職員招待会(昭和14年1月、東京会館)、来館した高松宮殿下にIBM統計機の説明をする石坂[泰三]社長(昭和14年4月)、[皇居お堀端に]完成した第一生命館[(昭和13年10月完成)]、中央監視盤、大金庫、地下4階にあったカード類の保管庫、新築披露時の1階営業室、新築披露時の中庭を望むベランダ、トイレ p38
世相;役員 戦争と統制の時代 [昭和12年(1937年)~昭和20年(1945年)] 写真、石坂[泰三]社長と矢野[恒太]会長の就任披露会(昭和13年)、日本経済連盟の「遣欧米経済使節団」に参加した石坂[泰三社長]の帰国を東京駅に迎える矢野[恒太会長](昭和12年)、政府が主導した国民貯蓄奨励運動の一環として作成された保険募集パンフレット、契約者配当率の引き下げを知らせる新聞記事(『東京朝日新聞』昭和12年10月7日付)、戦時下の当社のポスター、昭和20年の支部長会議で演説する国民服姿の矢野[恒太]会長 p40
経営 戦争による打撃と再出発 [昭和20年(1945年)9月~昭和22年(1947年)11月] 写真、退任する直前の第46回社員総代会であいさつする矢野[恒太]会長(昭和21年11月)、戦時補償の打ち切りを伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和21年9月8日付)、生保各社の第2会社設立を伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和22年5月15日付)、当社新発足の公告(昭和22年11月)、社長に就任した矢野一郎、アメリカのインシュアランスウィークにならって昭和22年より11月が「生命保険の月」となる、外地からの引揚げ職員や戦死した職員の遺族に対して救護金などの援助を行った。それに対する受領証と礼状、矢野恒太の自宅は戦争で家を失った職員の寮として利用された p52
社会貢献 社会貢献活動 昭和10年(1935年)~平成13年(2001年) 写真、{戦前(財団法人保生会)、昭和20年代(保健文化賞、財団法人矢野恒太記念会)、昭和30年代(財団法人第一住宅建設協会、愛児館、財団法人心臓血管研究所、財団法人地域社会研究所)、昭和40年代(相互愛の拠金、財団法人姿勢研究所、財団法人国際保険振興会)、昭和50年代(全国小学生テニス選手権大会)、平成元年以降(緑のデザイン賞、東京ゾリステン親子のための室内楽コンサート、マッチングギフト制度、VOCA(ヴォーカ)展、第一生命ギャラリー、モーツァルト住家復元事業、第一生命ホール)} p132
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