興亜石油(株)『興亜石油60年史』(1996.12)

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沿革;役員 創業 昭和8年(1933年) 写真、創業者野口栄三郎(初代社長)、野口の右腕として生涯会社の発展に尽力した薄井久男、当社設立の前に創業者たちが勤務した北樺太石油のオハ油田、創業から約3年間 丸ビル7階の一室を本社事務所とした、東洋商工の創立総会決議録、創業当時の役員・社員、会社設立時の登記簿謄本と第1期の貸借対照表・損益計算書 巻頭
沿革;生産 麻里布製油所の建設/航空揮発油の製造をめざして 昭和13年(1938年)7月~昭和20年(1945年)5月 写真、航空揮発油製造技術獲得のため渡米する野口栄三郎(昭和13年7月22日、秩父丸船上にて)、野口がニューヨークから橋本へ送った葉書(1940年5月23日付)、麻里布工場営業許可書(昭和15年5月3日)、当社の航空揮発油製造を強力に支援した陸軍航空本部第三課長橋本秀信(後に陸軍中将)、麻里布製油所建設に尽力した堀江不器雄。日本揮発油(現・日揮)から当社に移籍、麻里布製油所建設資金の融資を伝える命令融資通知書(昭和16年4月9日)、興亜石油への社名変更(昭和16年5月)後の新聞広告(昭和16年8月16日 油業報知)、日本曹達との提携解消後本社を移転した丸の内ホテル・中央ビル、興亜石油の社旗、麻里布製油所における幹部(昭和19年1月19日) 城地淡部長、薄井久男取締役、野口栄三郎常務、堀江不器雄取締役。軍需工場指定書(昭和19年4月25日)、昭和19年1月に運転を開始した常圧蒸留装置、建設中の陸軍法装置(航空揮発油製造のための接触分解改質装置)、B29による爆撃を受ける麻里布製油所と陸軍燃料廠(昭和20年5月10日)、被爆した麻里布製油所設備、東京大空襲後開設した永福疎開事務所と経理担当者たち 巻頭
沿革;提携・合併 麻里布製油所の操業再開とカルテックスとの提携 昭和24年(1949年)6月~昭和25年(1950年)9月 写真、太平洋岸製油所の操業停止から再開に至るGHQ諸覚書、丸ノ内ホテルがGHQに接収されたため本社事務所を目黒および丸ノ内三菱仲13号館へ移転、昭和25年1月に復旧した常圧蒸留装置、接触分解改質装置の一部を転用して建設した熱分解装置(昭和25年6月完成)、昭和24年6月末ごろ錦帯橋にて。薄井久男常務、W.F.ブラムステッド副社長、野村事務所野村駿吉代表、杉本保也取締役麻里製油所長、片山範次(麻里布製油所次長)、ブラムステッドの麻里布製油所視察はカルテックスとの提携の発端となった。里布製油所視察を終えたW.F.ブラムステードからの書簡(昭和24年7月5日 同年8月2日付)、原油受委託精製に関する予備契約(昭和24年7月20日付 カルテックスとの初めての契約書)、カルテックスとの原油受委託精製の契約書(昭和24年9月12日付)、待望の戦後の原油輸入第一船ラム・リバー号(昭和25年8月16日 岩国港に入港)、GHQ カルテックス幹部ほか150名を招いての麻里布製油所再開式(昭和25年8月28日)、外資委員会認可書(昭和25年11月10日付)。同日カルテックスは当社に出資 資本提携した。カルテックスとの提携を報じる新聞広告(昭和25年9月12日 油業報知)、昭和24年8月元売業者に指定 26年2月日石に元売販売機構を譲渡 グループの精製専業会社となった、カルテックス・日石グループ形成後の各社の首脳(カルテックス W.F.ブラムステッド会長、当社 野口栄三郎社長、野村事務所 野村駿吉代表) 巻頭
役員 薄井久男[取締役] 写真 p5
役員 島野弥之助と薄井久男[取締役] [昭和17年(1942年)頃] 写真 p55
事業所 目黒事務所と薄井久男、[本社として一室を借り受けた]三菱仲13号館 [昭和21年] 写真 p70
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