(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

"安倍能成"が書かれている年表項目はハイライトされています。

表示切替
月日 事項 年表種別
大正3年(1914) 12月5日 魚住影雄《折蘆遺稿》刊―著者は高等学校時代の岩波茂雄の尊敬する友人で、編者は安倍能成氏であった。 岩波書店
大正4年(1915) 10月3日 《哲学叢書》刊行開始―全12冊。編者:阿部次郎・上野直昭・安倍能成。第1次世界大戦の社会・経済的影響や西欧思潮の無秩序な流入による当時の思想界の混乱は、わが国における哲学の貧困を示すものである、との考えから岩波茂雄は、日本人の哲学的思索の確立に資するため、哲学の知識の普及を思いたち、この叢書を刊行することになった。この叢書は学生層に広く浸透し、爾後岩波書店は哲学書の出版社として存在を認められるに至った。編者は岩波茂雄の友人であり、著者も大部分は岩波と交友関係にあった。これらの友人は、この叢書の発刊にあたって売行きを危ぶんだが、発行者の岩波は700部あるいは1000部を印刷すると称して、非常に積極的であったという。(全巻予約直接申込者800名)売れ行きの最も多かったものは速水滉《論理学》(1916.4.10刊)で大正末(1926)までに7万5000部、1963年3月までに16万6800部、高橋穣《心理学》(1917.7.10刊)大正末までに4万3000部。1949年4月までに10万1300部発行。(1917.8.25完結)。 岩波書店
大正6年(1917) 5月1日 月刊雑誌《思潮》創刊―主幹:阿部次郎。同人:石原謙・和辻哲郎・小宮豊隆・安倍能成。発行の辞は1300字に及ぶがその始めに“優れたる文明を建設し豊なる生活を開展せむがためには、その基礎を広くおおらかに築かなければならない。そのためには、我等は、祖国のことと共に世界のことについて、自家のことと共に他人のことについて、博大にして深邃なる興味と同情と理解とをもっていなければならない。狭隘なる国粋主義は、徹底せる理解と批評とを欠ける外国模倣と共に、我等の文明と生活とを貧寒にするものである”と述べている。定価は創刊号30銭、以後25銭。 岩波書店
9月 《漱石全集》の予約募集を発表―全12巻。(刊行途中第13巻と別冊が計画に加わり全14巻となる)。編集顧問:狩野亨吉・大塚保治・中村是公。編集者:寺田寅彦・松根東洋城・阿部次郎・鈴木三重吉・野上豊一郎・安倍能成・森田草平・小宮豊隆。刊行のスローガンに“日本が生める世界的文豪を永久に記念すべき一大金字塔”“芸術は永く、人生は短し”の二つを使った。著者の生前にその著作を発行した書店との関係を考慮して岩波書店内に漱石全集刊行会を置き、岩波茂雄が代表者になった。 岩波書店
大正11年(1922) 10月28日 岩波茂雄、速水滉・上野直昭・中勘助・和辻哲郎・津田青楓・安倍能成・篠田英雄・高橋健二氏等とともに天竜峡を下る。 岩波書店
昭和11年(1936) 10月11日 岩波茂雄、野上豊一郎氏および三女美登利とともに朝鮮に旅行、金剛山などに遊び、京城大学の安倍能成・上野直昭・宮本和吉・速水滉・田辺重三氏らとあう。 岩波書店
昭和13年(1938) 3月20日 《鈴木三重吉全集》刊行開始―全6巻。編集:安倍能成・森田草平・小宮豊隆・青木健作・坪田譲治・小山東一。(1938.12.24完結)。 岩波書店
昭和16年(1941) 4月19日 情報局の干渉―情報局第2課鈴木庫三少佐から電話があり、安倍能成《時代と文化》を例にとって、岩波書店の出版傾向を罵詈した上、出頭を強制された。このころ出版についての取締は、ほとんど情報局が掌握し、その要職は軍人によって占められていた。 岩波書店
昭和20年(1945) 9月10日 岩波茂雄、長野市における藤森省吾氏の葬儀式場で脳出血。10月16日まで長野市の寺島氏宅にて静養、17日帰京。この間、安倍能成氏来訪、新たに総合雑誌創刊の件決定。 岩波書店
昭和21年(1946) 1月1日 雑誌《世界》創刊号発行―日本には優れた知性が存在しながら、祖国が亡国の道へ進むことを阻止し得なかったということは、岩波が敗戦に関して最大の痛恨事と考えたことであって、今後再びこの過ちを犯さないためには、広汎な国民と文化との結びつきに努めねばならぬといい、岩波書店も在来のアカデミックな出版から、進んで大衆のための出版に進出する必要があると説いた。終戦直後総合雑誌の発刊を提案したのは、この理由からであった。たまたま安倍能成・志賀直哉氏等、30余人の指導的な学者・芸術家から成る〈同心会〉でも総合雑誌発刊の議が起り、岩波にその申入れがあった。その結果1945年9月末、両者協力の形で雑誌《世界》が創刊されることに決した。監修:安倍能成、編集主任:吉野源三郎。《世界》という名称は谷川徹三氏の提案による。正月号を創刊号として1945年12月中旬に発売され、部数は8万部であった。なお同心会と岩波との協力関係については、岩波は自己の創刊した雑誌の編集を同心会の代表たる親友の安倍氏に委託したものと諒解し、同心会の方々は同人雑誌の発行を岩波が引受けたものと諒解し、多少の喰い違いがあったが、安倍氏が幣原内閣の文部大臣となるに及んで、大内兵衛氏が編集指導を代行することになり、しだいに同心会との結合がゆるくなって、やがて同心会が別に同人雑誌《心》を発行するに至って《世界》との関係は自然に解消した。 岩波書店
昭和22年(1947) - 前年より連合軍最高司令部民事検事局命令にもとづき事前検閲を受けた際一部削除された書目には下記のようなものがある//滝沢敬一《フランス通信》、山田勝次郎《米と繭の経済構造》、羽仁五郎《明治維新》、天野貞祐《道理の感覚》、野呂栄太郎《日本資本主義発達史》、斎藤茂吉《つゆじも》、田中耕太郎《教育と権威》、岩波茂雄〈岩波新書刊行の辞〉〈岩波全書刊行の辞〉、福沢諭吉《福翁自伝》、野村吉三郎《米国に使して》、プライス《近代民主政治》、アンデルセン《お話と物語集》、徳冨健次郎《みみずのたはこと》、内村鑑三《後世への最大遺物》、尾崎咢堂《回顧漫録》、小宮豊隆《夏目漱石》、安倍能成《自然・人間・書物》、ベーベル《婦人論》、内田清之助《渡り鳥》、大塚弥之助《山はどうして出来たか》、小倉金之助《日本数学史》ほか数点。 岩波書店
昭和23年(1948) 12月12日 安倍能成・仁科芳雄・大内兵衛氏等の平和問題研究会総会開かる―明治記念会館にて。この年7月ユネスコは、アメリカのオルポート、ハンガリアのソロイ等8社会科学者の〈戦争をひきおこす緊迫の原因に関する声明〉を発表、《世界》編集部は東京と京都を中心とする50余人の社会科学者・自然科学者にこの声明の検討を依頼し、これらの諸氏は9月以降東西両地において7部会に分れて研究をつづけて、その結論をこの日もち寄り、この総会を開いた。議長:安倍能成氏、副議長:仁科芳雄・大内兵衛氏。この総会でまとめられた意見は声明として《世界》1949年3月号に発表された。後、この討議に参加した人々によって〈平和問題談話会〉が成立した。 岩波書店
昭和24年(1949) 4月25日 岩波書店、株式会社となる―岩波茂雄は創業以来個人経営をかえなかったが、戦時中および戦後発病以後、法人組織への変更を考慮していた。岩波の歿後、この問題は懸案となっていたが、当時の社会的混乱を考慮し、社会情勢と経済の一応の安定を待つこととし、経営の形態は変更しなかった。その後、戦後経済も安定し、業務も復興し、将来への見通しも可能となったので、かねての懸案をとりあげ、岩波茂雄歿後3年にあたるこの日、組織を株式会社に改めた。資本金5000万円。会長:堤常。取締役社長:岩波雄二郎。専務取締役:小林勇。常務取締役:長田幹雄。取締役:吉野源三郎(第3期より常務取締役)。監査役:安倍能成。営業・出版は長田、編集は吉野がそれぞれ担当。 岩波書店
昭和26年(1951) 6月28日 第2回定時株主総会開催―前期からこの期にかけてドッジ・ラインの影響、この期後半には朝鮮戦争による〈特需ブーム〉があって、景気の起伏は激しかったが、営業成績は総じて順調であった。物価がやや安定し、書籍の定価も同様であった。ただし、社の方針として低価格主義を採用し、一方広告費・人件費などは増加したため、利益増加率は低下した。総収入金7億9211万8000余円、総支出金7億1146万1000余円、利益金8065万6000余円、配当は1割と決定した。監査役任期満了につき改選の結果、安倍能成氏重任、曽志崎誠二氏が新任された。 岩波書店
昭和27年(1952) 4月23日 岩波茂雄7回忌追悼会、上野精養軒にてひらく。来会者130人、安倍能成編《茂雄遺文抄》を来会者および従来岩波と交渉の深かった人々に贈呈。 岩波書店
昭和28年(1953) 4月 岩波文庫創刊25年記念として、この月間に、次ぎの諸行事が行われた。//▲全国の小・中・高校および図書館へ抽選により10万冊の文庫進呈―締切りまでに2万余の申込みがあった。A組...岩波文庫600選1揃全69組、B組...岩波少年文庫・写真文庫各1揃全207組、C組...B組のうちいずれか1揃全414組。//▲文庫卸値正味5分引き販売。//▲小冊子《古典の読みかた》刊―文庫判126頁、非売品。30万部を全国の小売店を通じて読者へ贈呈。執筆者:小泉信三・清水幾太郎・大内兵衛・高木市之助・桑原武夫・吉川幸次郎・河盛好蔵。//▲記念パーティー開催―4月11日、東京会館にて、岩波書店創業40周年記念をも兼ねて著訳者を中心に関係者を招待、約400人来会、4月28日夜、京都、都ホテル、100人来会。//▲岩波文庫の夕―4月18日夜共立講堂にて開催、小売店・印刷所・製本所関係者・社員およびその家族を招待。//▲記念講演会―4月18日午後1時、神田共立講堂にて開催。講師:野上弥生子・都留重人・吉川幸次郎・萩原雄祐。朗読:山本安英。4月30日午後6時、大阪産経会館にて開催。講師:安倍能成・恒藤恭・菊池正士・中野好夫・清水幾太郎。//▲《文庫》4月号特集〈岩波文庫創刊25年記念〉発行。//▲社内パーティー開催―4月24日、会社創立記念日の祝賀を兼ねて。 岩波書店
昭和29年(1954) 1月16日 平和問題談話会主催・《世界》編集部後援により〈中国学術文化視察団帰国報告講演会〉開催―共立講堂において、司会:大内兵衛。講師:安倍能成・阿部知二・岸輝子・清水幾太郎・吉野源三郎。 岩波書店
9月27日 編集長吉野源三郎、学術文化視察団(団長安倍能成氏)の一員として中華人民共和国を訪問のため出発、10月27日帰国。 岩波書店
昭和30年(1955) 6月28日 第6回定時株主総会開催―この期は売上高・純益金ともに減少した。前期に比し売上高は9.5%、純益金27.6%の低下。一般的不況の影響もあるが、低価格政策を強化したこと、広告費が増大したこと等も理由に数えられる。総収入金10億4638万5000余円、総支出金9億6647万3000余円、純益金7991万2000余円、配当1割2分。監査役任期満了につき改選の結果、安倍能成・曽志崎誠二の両氏が再選された。 岩波書店
昭和32年(1957) 11月3日 安倍能成氏、《岩波茂雄伝》完成―岩波茂雄の死後、遺族・知友が協議、伝記を作ることに決定、安倍能成氏が執筆を受諾された。安倍氏は公務繁多の中に筆を進め、約10年を経て完成。当初の予定に従って、岩波茂雄生前の知人及び岩波書店と縁故ある人々約3000人に、岩波雄二郎からこれを贈呈した。その後、各方面からの勧めがあり、12月10日、これを岩波書店より出版、一般に市販した。 岩波書店
PAGE TOP