(株)読売新聞社『読売新聞百年史. 資料・年表』(1976.11)

"宮崎光男"が書かれている年表項目はハイライトされています。

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月日 事項 年表種別
昭和2年(1927) 5月15日 宮崎光男「ふくろ鳴く」2面に連載 本社
昭和11年(1936) 7月3日 社会部長宮崎光男をベルリン・オリンピック取材、欧米新聞事業視察のため特派 本社
昭和12年(1937) 4月10日 編集企画部を新設、社会部長宮崎光男を部長に、社会部長には中満義親が就任。また編集庶務部を新設、部長に岡野敏成 本社
昭和15年(1940) 11月1日 企画局を新設、局長に編集局次長宮崎光男。人事部を新設、部長に岡野敏成 本社
昭和16年(1941) 8月6日 編集局長に宮崎光男(企画局長)、企画局長に中満義親(編集局次長兼社会部長)、記事審査委員長に柴田勝衛(編集局長)。また小林光政、竹中治は顧問に 本社
昭和17年(1942) 9月29日 本社新役員を選出、代表取締役社長正力松太郎、取締役副社長高橋雄豺、専務取締役総務局長小林光政、常務取締役業務局長稲葉輪一、取締役厚生局長竹中治、取締役主幹宮崎光男、取締役企画局長務台光雄、編集局長に中満義親、新設の出版部長に松井政平。 本社
昭和19年(1944) 3月18日 主幹宮崎光男、ビルマ新聞社長として現地へ向かう 本社
昭和20年(1945) 8月20日 社員総会開かれ役員を改選、社長正力松太郎、副社長高橋雄豺、常務取締役稲葉輪一(9.2に至り戦災死を確認)取締役宮崎光男各重任、取締役務台光雄、常務取締役に、顧問小林光政、専務取締役に、編集局長中満義親、取締役に各選任 本社
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