(株)読売新聞社『読売新聞百年史. 資料・年表』(1976.11)

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月日 事項 年表種別
大正13年(1924) 2月25日 正力松太郎、第7代社長に 本社
昭和9年(1934) 11月18日 全米野球団総監督コニー・マック、正力松太郎連名で凶作地へ5,000円・東京府に1,000円を贈る 本社
昭和10年(1935) 2月22日 正力松太郎、本社玄関先で右翼団体会員に襲われ重傷(2.26聖路加病院入院。4.13退院) 本社
昭和17年(1942) 9月29日 本社新役員を選出、代表取締役社長正力松太郎、取締役副社長高橋雄豺、専務取締役総務局長小林光政、常務取締役業務局長稲葉輪一、取締役厚生局長竹中治、取締役主幹宮崎光男、取締役企画局長務台光雄、編集局長に中満義親、新設の出版部長に松井政平。 本社
昭和20年(1945) 8月20日 社員総会開かれ役員を改選、社長正力松太郎、副社長高橋雄豺、常務取締役稲葉輪一(9.2に至り戦災死を確認)取締役宮崎光男各重任、取締役務台光雄、常務取締役に、顧問小林光政、専務取締役に、編集局長中満義親、取締役に各選任 本社
昭和26年(1951) 8月6日 元社長正力松太郎、公職追放解除 本社
9月1日 正力松太郎、テレビ全国放送網構想を発表 マスコミ
昭和27年(1952) 10月15日 日本テレビ放送網株式会社創立、社長に正力松太郎 本社
10月15日 日本テレビ放送網創立、社長正力松太郎 マスコミ
昭和29年(1954) 7月7日 本社役員会満場一致で正力松太郎を社主に推挙し、その了承をうる。7.8社告 本社
12月1日 正力松太郎社主、自己所有の本社株のうち20万株を財団法人「正力厚生会」に寄付 本社
昭和30年(1955) 2月1日 日本テレビ放送網社長正力松太郎、マイクロウェーブ施設申請書を郵政省へ提出 本社
2月9日 代表取締役副社長、主幹安田庄司死去。2.11東京・築地本願寺で社葬、葬儀委員長正力松太郎 本社
2月27日 社主正力松太郎第27回衆議院選挙で富山2区から初当選 本社
4月28日 「原子力平和利用懇談会」丸の内の日本工業倶楽部で発会式。社主正力松太郎、世話人代表に選ばれる 本社
10月25日 社主正力松太郎にアメリカ大リーグ名誉賞贈られる 本社
11月24日 社主正力松太郎、第3次鳩山内閣の国務大臣(北海道開発庁長官)に就任、社主を辞任 本社
昭和31年(1956) 12月23日 正力松太郎、社主に復帰 本社
昭和32年(1957) 7月10日 正力松太郎、国務大臣(国家公安委員長、科学技術庁長官、原子力委員長)に就任、社主を辞任 本社
昭和33年(1958) 5月22日 正力松太郎、衆議院選挙に富山県2区から当選 本社
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