※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和16年(1941) | - | 【渋沢敬三】全国貯蓄銀行協会会長に就任。第一銀行副頭取に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 採油部門を帝石へ譲渡命令 | 当社の沿革 | |
- | 太平洋戦争に突入、鉱山統制会設立 | 社会一般 | |
昭和17年(1942) | - | 【渋沢敬三】日本銀行(以下、日銀)副総裁就任、これに伴い第一銀行など辞任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 南方各事業所設置 | 当社の沿革 | |
- | シンガポール陥落 | 社会一般 | |
昭和18年(1943) | - | 【渋沢敬三】大東亜会議に来日のスバス・チャンドラ・ボース、約4週間綱町邸に逗留。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 金山整備、日産化学工業(株)吸収合併 | 当社の沿革 | |
- | 戦局転換、イタリア降伏 | 社会一般 | |
昭和19年(1944) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』669号を発行、以後休刊する。岩波書店より『渋沢栄一伝記資料』第1巻が刊行される。【渋沢敬三】結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。総裁時代一度も東京を離れず。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 本社移転(東京日本橋区室町へ)、軍需会社指定、南方日本鉱業(株)設立 | 当社の沿革 | |
- | サイパン失陥、本土空襲激化 | 社会一般 | |
昭和20年(1945) | - | 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 炭業部門及び化学部門を分離、終戦により外地事業所喪失 | 当社の沿革 | |
- | 終戦、財閥解体等の諸指令 | 社会一般 | |
昭和21年(1946) | - | 【竜門社】財団法人竜門社、財団法人渋沢青淵翁記念会が合同して渋沢青淵記念財団竜門社となる。【渋沢敬三】公職を追放さる。本邸は大蔵省に官邸として貸与、のち財産税にて敷地とともに物納。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 日鉱労組連結成、制限会社、特経会社、持株会社、証券保有制限指定会社に指定さる | 当社の沿革 | |
- | インフレ高進、新円切換 | 社会一般 | |
昭和22年(1947) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』670号を復刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 公職会社に指定、生産漸増 | 当社の沿革 | |
- | 二・一スト中止、新憲法施行 | 社会一般 | |
昭和23年(1948) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』677号をもって廃刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 集排会社、財閥会社に指定、身分差別制度撤廃実施 | 当社の沿革 | |
- | 経済九原則指令 | 社会一般 | |
昭和24年(1949) | - | 【竜門社】政府より曖依村荘が無償返還されることになる。財団法人社会教育協会に依頼して、機関誌『竜門雑誌』を継承する機関誌『青淵』を創刊する。曖依村荘全敷地の約3分の2を売却する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 烏山試験所開始、整備計画認可、銅補給金撤廃 | 当社の沿革 | |
- | ドッジ声明、インフレ収束、単一為替レート設定 | 社会一般 | |
昭和25年(1950) | - | 【渋沢敬三】ユニバーサル広告社社員(~1951年)。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 本社移転(東京港区赤坂葵町へ)、豊羽鉱山(株)設立、川崎工場開始、日立全泥浮遊選鉱開始 | 当社の沿革 | |
- | 朝鮮動乱勃発、特需景気 | 社会一般 |