※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和16年(1941) | - | 【渋沢敬三】全国貯蓄銀行協会会長に就任。第一銀行副頭取に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
12月 | 日本軍が真珠湾攻撃。太平洋戦争の始まり | 国内外の動き | |
昭和20年(1945) | - | 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 日本が無条件降伏 | 国内外の動き | |
9月 | 稲荷神社秋季例祭および創立30周年記念祭 | 当社の動き | |
昭和21年(1946) | - | 【竜門社】財団法人竜門社、財団法人渋沢青淵翁記念会が合同して渋沢青淵記念財団竜門社となる。【渋沢敬三】公職を追放さる。本邸は大蔵省に官邸として貸与、のち財産税にて敷地とともに物納。 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 加賀製紙株式会社労働組合の結成を承認 | 当社の動き | |
昭和23年(1948) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』677号をもって廃刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | 合名会社白木洋紙店東京支店を代理店とする。ただし、東京支店のみ | 当社の動き | |
昭和24年(1949) | - | 【竜門社】政府より曖依村荘が無償返還されることになる。財団法人社会教育協会に依頼して、機関誌『竜門雑誌』を継承する機関誌『青淵』を創刊する。曖依村荘全敷地の約3分の2を売却する。 | 渋沢関係略年譜 |
12月 | 砕木機を購入しGP(砕木パルプ)の製造開始 | 当社の動き | |
昭和25年(1950) | - | 【渋沢敬三】ユニバーサル広告社社員(~1951年)。 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 朝鮮戦争始まる | 国内外の動き | |
昭和26年(1951) | - | 【竜門社】文部省史料館に日本実業史博物館準備室資料を寄託する。機関誌『青淵』を渋沢青淵記念財団竜門社から発刊する。【渋沢敬三】追放解除。 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | わら集積場土間のわら束にトラックから引火、出火 | 当社の動き | |
6月 | 田熊汽罐ボイラー2基設置 | 当社の動き | |
昭和29年(1954) | - | 【竜門社】渋沢栄一伝記資料刊行会を組織し、『渋沢栄一伝記資料』全58巻の編集を開始する。 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 抄紙工場から出火。工場を全焼 | 当社の動き | |
5月 | 自社従業員の手で1号抄紙機に2号抄紙機(旧)の機械を組み合わせて生産を再開 | 当社の動き | |
昭和30年(1955) | - | 【竜門社】渋沢栄一伝記資料刊行会、『渋沢栄一伝記資料』第1巻を刊行する。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 社長の3代目中島徳太郎が死去 | 当社の動き | |
10月 | 中島商店社長の中島雄吉が4代目中島徳太郎を襲名 | 当社の動き | |
11月 | 西田儀一郎が会長、4代目中島徳太郎が社長に就任 | 当社の動き | |
昭和33年(1958) | - | 【渋沢敬三】角川書店より『南米通信 : アマゾン・アンデス・テラローシャ』刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 2号抄紙機(新)を設置。一部に静岡県の大浜製紙から導入した機械を入れて運転開始 | 当社の動き | |
昭和35年(1960) | - | 【渋沢敬三】熊本大学における第15回日本人類学会・日本民族学協会連合大会に出席して発病、東京大学医学部附属病院に入院、療養。 | 渋沢関係略年譜 |
12月 | 工場排水規制法公布(犀川は対象外)//政府が国民所得倍増計画を閣議決定 | 国内外の動き | |
昭和36年(1961) | - | 【渋沢敬三】角川書店より『犬歩当棒録 : 祭魚洞雑録第三』刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 2号抄紙機のバット取り替え | 当社の動き | |
昭和37年(1962) | - | 【竜門社】寄託中の日本実業史博物館準備室旧蔵資料を文部省史料館に寄贈する。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 田熊汽罐ボイラー設置。燃料を石炭から重油に変更 | 当社の動き | |
昭和38年(1963) | - | 【渋沢敬三】昭和37年度「朝日賞」文化賞受賞、贈呈式に出席。10/25死去。その直前に勲一等瑞宝章を授与さる。 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 水俣病は工場排水が原因と発表 | 国内外の動き | |
12月 | 3号抄紙機を設置、運転開始。円網ヤンキー多筒式 | 当社の動き |