(株)資生堂『資生堂宣伝史. 2』(1979.07)

"福原信三"が書かれている年表項目はハイライトされています。

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月日 事項 年表種別
大正4年(1915) - ●経営者に福原信三(福原有信三男)がつく 資生堂宣伝史
大正5年(1916) 11月 福原信三により意匠部発足―場所は竹川町店(資生堂化粧品部)3階 資生堂宣伝史
- ●明朝体の書体が、店文字として、福原信三により決められ、広告そのほかに使われる 資生堂宣伝史
大正12年(1923) - ●福原信三の指示により、矢部季が明代「太上感応篇」を、小村雪岱が複刻「寒山詩集」の字体をふまえて、現行の資生堂書体に近い宋朝風書体を考案 資生堂宣伝史
大正14年(1925) 1月 ●井深徴(大正12年4月、出雲町店写真部入店)が福原信三、長谷川商吉の指導により、商品写真などの撮影を手がけはじめる 資生堂宣伝史
昭和6年(1931) 1月 唐草文様の確立(「銀座化粧品」―福原信三の指示によって、大正時代から追求してきた唐草文様が、資生堂独自の形式ではじめて確立。不況対策の低価格商品であったため、刷色に制約はあったが、デザインは精巧 資生堂宣伝史
昭和11年(1936) - ●色彩映画の試験撮影―昭和9年、イーストマン・コダック社からコダクローム16ミリフィルム(アマチュア映画用)が発売され、福原信三がアメリカから現品を取寄せ、井深徴に試験撮影を命じた 資生堂宣伝史
昭和15年(1940) 11月 ●福原信三が会長に、松本昇が取締役社長に就任 資生堂宣伝史
昭和23年(1948) 11月4日 福原信三相談役病没(行年65歳) 資生堂宣伝史
昭和45年(1970) 11月 ●「福原信三」伝刊行―編著者・矢部信寿。刊行にちなみギャラリーにて「福原信三遺作展」を開催し、写真作品25点を展示 資生堂宣伝史
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