三菱重工業(株)長崎造船所『長崎造船所150年史』(2008.01)

"本木昌造"が書かれている年表項目はハイライトされています。

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月日 事項 年表種別
万延元年(1860) 11月 本木昌造、長崎鎔鉄所御用掛任命 当所の動き
慶応元年(1865) 8月 長崎製鉄所の経営困難につき、本木昌造が改革意見を提出 当所の動き
明治元年(1868) 6月 長崎製鉄所官収され、長崎府判事統轄の下に経営製鉄所頭取、本木昌造・青木休七郎 当所の動き
明治2年(1869) 3月11日 トーマス ブレーク グラバー管理の小菅船架を洋銀12万ドルを以て買収初代小菅造船長平野富次郎、製鉄所頭取本木昌造は上海の米人ガンフルに活版機械を注文し、本興善町唐通事会所跡に長崎製鉄所の付属として活版所設置(わが国活版術の濫觴) 当所の動き
明治3年(1870) - 本木昌造がわが国最初の鉛活字を鋳造 社会の動き
明治6年(1873) 1月 本木昌造、鉛活字による週刊「長崎新聞」を創刊(同年12月廃刊) 社会の動き
明治8年(1875) 2月 本田実、本木昌造らと「長崎新聞」復刊、翌年「西海新聞」その後「鎮西日報」となり、明治43年廃刊 社会の動き
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