※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治36年(1903) | - | 【渋沢栄一】東宮御慶事奉祝会副会長・会計監督。インフルエンザ罹患、喘息を併発。京釜鉄道株式会社理事。日印協会創立・会員(後に会頭)。〔63歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 新橋―品川間路面電車開通 | [一般・業界] | |
- | 浅草に電気館(初の映画館)開館 | [一般・業界] | |
- | アグファ社、パンクロマティック(全整色性)フィルムを開発 | [一般・業界] | |
- | 国産初の量産印画紙「さくら白金タイプ紙」発売 | [一般・業界] | |
明治37年(1904) | - | 【渋沢栄一】風邪をこじらせ長期に静養。韓国興業株式会社設立、監督。〔64歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | ロシアに宣戦布告(日露戦争) | [一般・業界] | |
- | 戦費調達のため第一回国債1億円発行 | [一般・業界] | |
- | 三越呉服店設立 | [一般・業界] | |
- | 与謝野晶子「君死に給ふこと勿れ」 | [一般・業界] | |
明治38年(1905) | - | 【渋沢栄一】韓国皇帝より勲一等太極章。移転した養育院感化部井之頭学校と改称、開校式。徳川慶喜・伊藤博文らを飛鳥山邸(曖依村荘)に招待、茶室・無心庵にて午餐会。〔65歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 『血の日曜日』ロシア第1次革命始まる | [一般・業界] | |
- | 日本海海戦 | [一般・業界] | |
- | 日露講和条約調印 | [一般・業界] | |
- | 奥羽本線開通 | [一般・業界] | |
- | 韓国に統監府設立 | [一般・業界] | |
- | 夏目漱石「吾輩は猫である」 | [一般・業界] | |
- | 東北地方深刻な飢饉で流民増大 | [一般・業界] | |
明治39年(1906) | - | 【渋沢栄一】大日本麦酒株式会社設立、取締役。南満州鉄道株式会社設立委員。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。大日本製糖株式会社設立、相談役。名古屋電力株式会社創立・相談役。東海倉庫株式会社創立・相談役。明治製糖創立・相談役。〔66歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月20日 | 東京地区の写真材料製造・販売営業を営む優良同業者が集まり、業界の発展と親睦を目的とした、東京写真材料商組合を設立。//※神田区旅篭町の福田屋で初会合を開く。来会者20有余名。規則書内容の協議と役員選挙を行い、組長以下、役員選出。//【役員】組長/浅沼藤吉//副組長/小西六右衛門//常務幹事/加藤三造//幹事/曽根真文//同/三興商会//同/石川商会//同/滝川喜祐//※その後、組合員に多大の利益を与え、その拡張を計るため、東京写真材料商組合臨時総会を日本橋区小船町田口において開催。浅沼藤吉、小西六右衛門、加藤三造、その他会員30有余名が出席し、組合の目的や組合員の権利・義務を定めた規則書を作成。組合員の店頭には「東京写真材料商組合」の標札を掲げることを決める。 | [組合] | |
- | 東京写真材料商組合成立の経緯//当時の小西商店発行の『写真月報』によると、読者(写真機材の需要者・材料商)に向けて、「近来写真の隆盛なるにつれ、写真器械商の増殖せしこと夥しく、中には粗悪なる器械、贋造品を販売して顧客を瞞着するもの尠からざるより、今回同業者相謀り東京写真材料商組合なるものを組織し、奸商の輩出を絶ち、益々精良なる材料品を販売し以て顧客の便益を増大せんとの趣旨により、(中略)尚創設費に金円を寄附せるもの多かりしが、総計金三百有余円に達せりといふ。」(『写真月報』第11巻第4号)と報じている。//外部に向けて書かれたこの記事によれば、組合結成の主要な目的は、当時の他の組合の多くがそうであったように「奸商の輩出を絶」つにあった。が、それと同時に、組合は写真機材の競売・交換会を機敏かつ組織的に行うためにも必要とされていたのである。しかし、以上の二つの目的が同業者多数の要求に至るほど機は成熟していなかったので、組合が結成されるためには、二、三の人の積極的な働きかけと奔走が必要とされた。そして、出来上がった組合も「親睦会」的性格の濃いものであった。 | [組合] | |
- | 鉄道国有法など公布 | [一般・業界] | |
- | 帝国図書館(上野図書館)開館 | [一般・業界] | |
- | 島崎藤村「破戒」、夏目漱石「坊ちゃん」 | [一般・業界] |