(株)読売新聞社『読売新聞百年史』(1976.11)

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役員 写真、前社主 正力松太郎 巻頭
役員 写真、社長 務台光雄 巻頭
役員 写真、社主 正力亨 巻頭
催し 読者とともに100年 現勢//100周年記念式典 昭和49年11月2日 写真、創刊100年を祝う式典が、東京本社大会議室で行われた。務台社長は「これを機会に 全社をあげて衆知を傾け 勇気と英断をもって変革の時代に対処し 全国紙として 報道の使命に徹する覚悟です」と第2世紀への決意を明らかにした p33
事業所 読者とともに100年 現勢//大手町の東京本社 昭和46年10月31日完工 写真、皇居に近い千代田区大手町の本社社屋は 最新設備を誇る新聞社だ。地下5階 地上10階 塔屋2階 建築面積延べ68,609m2 昭和46年10月31日完工した p34
催し 読者とともに100年 現勢//国際会議 昭和49年10月30日 写真、本社主催の国際会議も数多く開かれた。昭和49年10月30日には 100周年を記念して「明日の世界と日本を考える」国際会議が開かれ 内外の学者40余人が参加した(東京・帝国ホテル) p36
名誉 読者とともに100年 現勢//天皇 皇后両陛下 本社へ 昭和49年10月11日 写真、100周年を前にした昭和49年10月11日 両陛下は本社施設をご覧になった。なかでも創刊号の紙面や明治初期の新聞配達箱には特別のご興味を示されていた p37
事業所 読者とともに100年 現勢//東京本社・編集局 写真 p38
施設 読者とともに100年 現勢//テレックス 写真、編集局・外報部のテレックスは 海外支局とを結んで 24時間動きつづけている。原稿はローマ字か 英文で送られてくる p38
施設 読者とともに100年 現勢//無電室 写真、本社10階の無電室は 支局 ラジオカー 航空機 ハンディトーキーなどからの超短波 極超短波通信を 無線制御装置でさばいてゆく p38
施設 読者とともに100年 現勢//モノタイプ・コントロール・センター 写真、全自動モノタイプ(FAM)のコントロール室では テープになった原稿をつぎつぎと処理してゆく。テープは1分間114字のスピードで活字となる p39
施設 読者とともに100年 現勢//工程センター 写真、編集と工場を結ぶ「工程センター」 新聞の全工程はここで制御される。表示盤は本版各面 県版各面の製作進行状況を ひと目で知らせる p39
施設 読者とともに100年 現勢//印刷管理センター 写真、地下3階の印刷管理センターは電子計算機で 印刷部数を自動的に調整するという日本で はじめての印刷管理システムだ p40
施設 読者とともに100年 現勢//電子計算室 写真、新聞製作のなかで いまや電子計算機は大きな役割を果たしている。人事・給与計算 調査集計のほか印刷管理 印刷用紙管理 自動組み版 販売・発送一貫システムと その利用は多岐にわたる p40
施設 読者とともに100年 現勢//ファクシミリ 写真、新聞紙面をそのまま遠隔地へ電送するファクシミリは新聞製作の革命だった。東京本社から北海道 北陸両支社 青森工場へ また大阪本社から西部本社へと新聞1ページを7分で送っている p41
施設 読者とともに100年 現勢//漢字テレタイプ 写真、原稿はテレタイプで打たれテープとなって工場へと流れてゆく。各本社間 支社――本社 支局――支社も迅速に送稿される p41
施設 読者とともに100年 現勢//超高速輪転機 写真、明治7年の創刊当時の印刷機は 木製と鉄製の手刷りロール機械各1台だった。100年後の今日 東京本社だけで1時間15万部を印刷する最新鋭輪転機78台が稼働〈左〉。鉛版コンベヤーが鉛版を運ぶ〈右〉 p42
施設 読者とともに100年 現勢//発送コンベヤー 写真、荒ナワでしばるこん包は過去のものとなった。世界に誇るカンウンター・スタッカーで 新聞はビニールこん包され コンベヤー・ベルトにのって仕分けされる p42
商品 読者とともに100年 現勢//出版物 写真、「日本の歴史」「昭和史の天皇」など読売の図書出版には古い伝統がある。定期刊行物も「週刊読売」「住まいと暮らし」「大相撲」「読売年鑑」「学習少年読売年鑑」「報道写真集」など多彩だ p44
商品 読者とともに100年 現勢//THE DAILY YOMIURI 昭和50年7月17日付 写真、日刊の英字紙「ザ・デーリー・ヨミウリ」は在日の外国人の評価が高い。編集には英字新聞部30人余が当たっている。このなかには10人近い外人記者もいる。写真はその編集部と紙面(昭和50年7月17日付) p44
施設 読者とともに100年 現勢//読売機の活躍 写真、本社の航空機の歴史は古い。昭和7年 よみうり1号機が取材に参加している。現有8機はきょうも東京 大阪 九州から取材に飛び立ってゆく。写真はよみうり121号(MU-2B-30型)よみうり114号機から撮影 p45
施設 読者とともに100年 現勢//暗室カー 写真、自動ダイヤル電話による通信を可能にし 写真現像電送設備をもつ。 p45
事業所 読者とともに100年 現勢 写真、読売新聞大阪本社(大阪市)、読売新聞北海道支社(札幌市)、読売新聞西部本社(北九州市)、読売新聞北陸支社(高岡市) p46
商品 報道写真//戦後30年 昭和20年3月、昭和50年 写真、日本橋方面から江東地区を望む。昭和20年3月10日の空襲で 一面焼け野原となったが 川の上には高速道路(△印)が走り 明治座(○印)も復興し 新大橋(×印)はすっかり姿を変えてしまった(下の写真は米軍撮影)  p48
商品;催し 報道写真//エリザベス女王とフォード大統領 昭和49年11月、昭和50年5月 写真、昭和50年5月来日 東京都心のオープンカー・パレードで歓呼をあびるエリザベス女王夫妻(上)。それより前49年11月来日して 京都二条城清流園で日本情緒にひたるフォード米大統領(下) p49
沿革;役員 本紙の歩み 1 写真、初代社長 子安峻 明治7年―22年 p50
沿革;商品 本紙の歩み 1//創刊号 明治7年11月2日 写真、明治7年11月2日の第1号の読売新聞(表面)。半紙大2ページ紙面は「布告《おふれ》」「新聞《しんぶん》」「説話《はなし》」「稟告《しらせ》」の4欄にわかれている。定価は1枚8厘 月10銭だった p50
沿革;事業所 本紙の歩み 1//虎ノ門の日就社 明治43年10月17日 写真、創刊当時の読売新聞(日就社)は 虎ノ門にあった。写真は明治43年10月17日付本紙に掲載された山中古洞筆の当時の社屋。右後方に金刀比羅神社の鳥居が見える p50
沿革;商品 本紙の歩み 1//創刊号の裏面 明治7年11月2日 写真、最後の稟告《しらせ》欄には「…投書を偏《ひとえ》に願ひます」と投稿を読者に依頼し「広告見世開き売出しなど何によらず…おしらせ申します」と無料広告を募るなど小新聞らしさをみせている p51
沿革;商品 本紙の歩み 1//日就社発行の英和辞書 明治6年 写真、明治6年 横浜弁天町にあった日就社から発行された。語数は55,000 維新期における最も完備した辞書であった。日就社はこののち東京に移転し この活字で読売新聞を発行した p51
沿革;販売 本紙の歩み 1//チリンチリン箱 明治10年前後 写真、明治10年前後 新聞配達にはリン(鐸)のついた飛脚箱のような黒塗りの箱が使われた。世間はこれをチリンチリン箱と呼んだ(武蔵野市・津田公子さんが本社に寄贈) p51
沿革;事業所 本紙の歩み 1//京橋がわから見た銀座通りのにぎわい 明治7年ごろ 写真、右端は伊勢勝こと西村勝三が洋服裁縫店を開業していた建物で 明治10年5月本社が買取って入った。明治7年ごろ 国輝筆(東京・都立中央図書館所蔵) p52
沿革;事業所 本紙の歩み 1//ガス灯と日就社 明治12年ごろ 写真、明治12年ごろの銀座。玄関の上に「日就社」の横書きと玄関わきには「読売新聞」の看板が見える。3代目広重筆(東京・がす館所蔵) p54
沿革;事業所 本紙の歩み 1//京橋から見た読売新聞社屋 明治12年ごろ 写真、後方煙をはいているのは読売新聞工場。明治12年ごろ 3代目広重筆(中央区京橋図書館所蔵) p55
沿革;商品 文豪の原稿 明治30年9月5日付、明治20年1月27日付、明治36年9月21日付、昭和14年9月9日付 写真、尾崎紅葉の「金色夜叉」 後編「新橋ステーションの場」(明治30年9月5日付)の原稿、金色夜叉「熱海海岸の場」さし絵(名著復刻全集 近代文学館から)、金色夜叉「新橋ステーションの場」紙面、〈上〉坪内逍遥の「旅ごろも」の原稿 明治20年1月27日付(早大演劇博物館所蔵)、〈左上〉幸田露伴の「天うつ浪」の原稿 明治36年9月21日付(岩波書店所蔵)、吉川英治の「太閤記」の原稿 第214回「若き家康」の項 昭和14年9月9日付夕刊 p56
沿革;商品 読売サンデー漫画 昭和6年代 写真、昭和6年代 日曜付録としてカラーのサンデー漫画4ページを発行した。東郷青児 安井曽太郎 川端竜子らの絵も再三紙面に登場している p58
関連会社 関連会社//読売日本交響楽団 写真、昭和37年4月 読売新聞社 日本テレビ 読売テレビを母体に発足した読売日本交響楽団は 同49年2月定期100回記念公演を行った。この間 44年には「音楽部門芸術大賞」も受賞している p60
関連会社 関連会社//読売仙台ビル〈右上〉 昭和50年9月 写真、地上8階 地下3階 延べ面積 43.166[43,166?]平方メートル東北一の床面積を誇る読売仙台ビルは 昭和50年9月 完成した。国鉄仙台駅前のメインストリート青葉通りに面するビルは 総ガラスのカーテンウォールで 読売新聞東北総局のほか本社関連会社が入居している。 p60
関連会社 関連会社//報知新聞社〈右下〉 写真、明治5年創刊の「郵便報知」がその前身。戦後の昭和21年「新報知」の名で復刊し 23年「報知新聞」と題号を復元した。25年からスポーツ専門紙となり スポーツ紙の王座にある p60
関連会社 関連会社//福島民友新聞社〈左上〉 写真、明治28年5月創刊で 戦後復刊し 昭和23年から読売新聞社と提携した。新社屋は46年10月完成した p60
関連会社 関連会社//日本テレビ放送網(NTV) 写真、昭和28年8月 民間テレビの第1号として開局した。全国にネットし 全日の視聴率第1位を続けている。下はスタジオ風景 p61
関連会社 関連会社//読売スタジオ 写真、その前身は 読売映画録音現像所である。昭和49年4月 その社名を 現在の株式会社読売スタジオと改めた。さらに同年6月には 東京都新宿区市ヶ谷砂土原町2-5に新社屋を完成させ 読売市ヶ谷ビルと命名した p61
関連会社 関連会社//読売会館 写真、昭和32年5月20日 東京・有楽町の報知新聞社跡地に地下3階 地上9階の読売会館が完工した。 7・8・9階は読売ホールで 経営は読売興業株式会社 p61
関連会社 関連会社//読売理工学院 写真、働きながら学ぶ勤労学徒のために 昭和45年設立され 同年3月東京理工専門学校が開校し 46年には九州理工専門学校も設置された。写真は東京・三田の東京理工専門学校の全景 p61
関連会社 関連会社//読売テレビ放送(YTV) 写真、昭和33年8月 関西地区で2番目の民放として開局した。NTVとの強力ネットワークで 高い視聴率を堅持している。写真は大阪市北区岩井町のYTV本社 p61
関連会社 関連会社//よみうりランド 写真、東京都稲城市と川崎市とにまたがるよみうりランドは遊園地を中心にして プール スケートリンク ボウリング場 サッカー場などレジャー施設がいっぱいだ p62
関連会社 関連会社//東京よみうりカントリークラブ 昭和50年4月 写真、よみうりランドに隣接して東京よみうりカントリークラブと東京よみうりパブリックコースの2つのゴルフ場がある。 カントリークラブでは カナダ・カップなども行われた。株式会社よみうりランドが経営している。写真は昭和50年4月 よみうりカントリークラブで行われた第3回ワールド・レディス・ゴルフトーナメントでの ローラ・ボー(アメリカ)のプレー。 p63
関連会社 関連会社//大阪・よみうりカントリークラブ 写真、兵庫県西宮市の国見池を中心に東コース(メンバー制)西コース(パブリック制)の3つがひろがっている。読売ゴルフ株式会社が経営している。 p63
関連会社 関連会社//東京読売巨人軍 昭和49年10月14日 写真、巨人軍の創設は昭和9年12月 当時は大日本東京野球倶楽部という名だった。翌10年ジャイアンツ(巨人)を名乗り 以来40年プロ野球の中心的存在となっている//写真は、ミスター・ジャイアンツ 長島茂雄選手の現役最終戦でのあいさつ(昭和49年10月14日 後楽園球場)と連続三冠王に輝く王貞治選手 p64
沿革;施設 読者とともに100年 本紙の歩み2 明治・大正 写真、創刊100周年を迎えて(昭和49年11月2日の読売新聞朝刊一面)、記念碑 新聞創刊の地 本紙の創刊された東京・虎の門の日就社跡に昭和49年12月 東京都港区教育委員会の手で記念碑が建てられた p65
沿革;役員 歴代社長 明治23年~昭和13年 写真、二代目社長 本野盛亨 明治23年―42年、三代目社長 高柳豊三郎 明治43年―45年、四代目社長 本野英吉郎 明治45―大正6年 二代目社主(大正6年―7年)、五代目社長 秋月左都夫 大正6年―8年、六代目社長 松山忠二郎 大正8年―13年、初代社主 本野一郎 明治43年―大正6年、三代目社主 本野盛一 大正7年―8年、日就社出版方担当 柴田昌吉、初代編集長 鈴木田正雄 明治7年―13年在籍、初期の読売調を築いた 高畠藍泉、初期の読売調を築いた饗庭篁村、顧問 成島柳北(朝野新聞社長) p66
沿革;事業所 創刊当時の本社 明治10年 写真、東京芝虎の門の日就社、東京・銀座に移転した当時の本社 p66
沿革;事業所 東京進出以前・横浜弁天町時代の日就社 明治6年 写真 p66
沿革;事業所 明治末からの社屋の変遷 明治42年、大正15年ごろ 写真、銀座1丁目の社屋は 明治42年3月3層楼に改築された。時計台もあり人目をひいた。大震災後 改装成った銀座3丁目の3階建て社屋。大手町に移転前の銀座3丁目の本館(右)と第2別館(左)。左手前は本社駐車場。 p67
沿革;商品 写真、社説の前身「読売雑譚《よみうりざふだん》」(明治12年創設 写真は2月25日付) p68
従業員 「読売雑譚」に健筆をふるった人たち 写真、加藤九郎、小野梓、杉浦重剛 p68
商品;従業員 明治20年10月1日 写真、明治憲法の普及に大きな役割を果たした高田早苗の「国会問答」、「国会問答」で紙価を高めた 主筆 高田早苗(明治20年―24年) p68
沿革;商品 文学新聞 明治23年12月23日、明治31年10月6日 写真、本紙は発行停止解除の日を期して 文学新聞へのスタートを切った。同日付本紙で 坪内逍遥 尾崎紅葉 幸田露伴の入社を社告した、尾崎紅葉、幸田露伴、文学新聞への提案者 坪内逍遥、文芸主任 正宗白鳥(明治36年―43年)、文芸部長 上司小剣(明治30年―大正5年)、「よみうり抄」を創設した 島村抱月(明治31年―33年)、よみうり抄の第1回 p69
沿革;商品 紅露二本立ての小説欄 明治23年7月5日 写真、紅葉作「伽羅枕(きゃらまくら)」、露伴作「ひげ男」 p70
沿革;商品 本社がはじめて募集した懸賞小説の入選作 明治27年4月16日付 写真、「瀧口入道《たきぐちにふだう》」高山樗牛 その一、写真は樗牛 p70
沿革;商品 文学新聞全盛時代と自然主義の作品 明治36年2月25日、明治43年1月1日、大正4年1月12日 写真、小杉天外作「魔風恋風《まかぜこひかぜ》」(明治36年2月25日 写真作者)、島崎藤村作「家」(明治43年1月1日 右は作者)、徳田秋声作「あらくれ」(大正4年1月12日 写真は作者)、〔注〕自然主義の作品としては「家」「あらくれ」のほか 田山花袋の「生」(明治41年4月)などがあげられる p71
沿革;商品 磐梯山噴火のときの特殊製版の写真 明治21年8月8日 写真、猪苗代付近から磐梯山をのぞんだもので日本ではじめての報道写真だ(明治21年8月8日の本紙) p72
沿革;商品 号外のさきがけ 明治8年11月30日付、明治10年9月24日 写真、明治8年11月30日付本紙にノリ付けされた火事の号外。締め切り後に入ったニュースを しばしばこうして報道した。左は明治10年9月24日の西郷隆盛戦死の号外 p72
沿革;従業員 日清・日露戦争当時の主筆 明治25年~明治43年 写真、市島謙吉(明治25年―27年)、中井喜太郎(明治27年―34年)、松平康圀(明治34年―35年)、石井勇(明治35年)、足立荒人(明治36年―39年)(明治40年―43年)、竹越与三郎(明治39年―40年) p73
沿革;商品 河上肇の「社会主義評論」 明治38年10月1日 写真、明治38年10月1日 河上肇(写真)は 千山万水楼主人の名で「社会主義評論」の連載をはじめ論壇を沸かせた p73
沿革;商品 日比谷焼打事件を報道した本紙 明治39年9月6日付 写真 p73
沿革;催し 東海道五十三次駅伝競走 大正6年4月27日付 写真、奠都50年を記念した京都―東京の駅伝競走が 本社主催で行われた。駅伝という言葉は このときはじめて使われた p74
沿革;商品 関東大震災で全焼後 11日ぶりに発行された本紙 大正12年9月12日 写真、大正12年9月1日は本社新社屋落成式当日だった。本社社屋は全滅に近い打撃を受け その立ち直りは他社に遅れた。そのなかで9月12日4ページ新聞を発行したが これは全社員の努力の結果だった p75
役員 大正時代の編集首脳 明治43年~大正13年 写真、主筆 笹川潔(明治43年―大正2年)、編集長 田村全宣(大正3年)、主筆 金崎賢(大正4年―7年)、主筆 五来欣造(大正3年―4年)、主筆 伊達源一郎(大正7―8年)、主筆 大庭柯公(大正10年)、編集局長 宮部敬治(大正10年―13年) p75
沿革;商品 よみうり婦人附録 大正3年4月3日付 写真、「よみうり婦人附録」は大正3年4月からはじまった。いまの婦人と生活欄の前身で新聞1ページの婦人欄は日本最初だった(大正3年4月3日付)上は 左/婦人部長・前田晁 右/主任・小橋三四子 p75
沿革;商品 よみうりラヂオ版 大正14年11月15日付 写真、本社が大正14年11月15日からはじめたラヂオ版は 日本の新聞では はじめての試みだった。これは読者に大好評で 他紙も追随した(大正14年11月15日付) p76
役員 正力社長時代初期の首脳 大正13年~昭和4年 写真、編集局長 千葉亀雄(大正13年―15年)、編集局長 半沢玉城(大正13年)、編集局長 矢野正世(大正15年―昭和4年) p76
催し 本因坊対雁金七段戦 大正15年9月27日から 写真、実現不可能といわれていた囲碁名人本因坊秀哉と七段雁金準一の対局が正力社長の尽力で大正15年9月27日から行われた。写真は右本因坊 左雁金 観戦者は右から高部六段 村松梢風 河東碧梧桐 p76
催し 昭和=終戦まで//「日本名宝展覧会」 昭和4年3月20日から、昭和4年2月 写真、昭和4年3月19日から東京・上野の東京府美術館で開かれた日本名宝展は 門外不出の逸品200余点を集め 大盛況だった。写真は開会式の模様を報じる同20日付紙面//日本名宝展総裁の閑院宮殿下は 関係者を自邸に招待された p77
商品 夕刊発行 昭和6年11月25日 写真、昭和6年9月 満州事変突発にともない 本社は夕刊発行を決意し ここに本紙は本格的な朝夕刊紙として やがて大発展をとげる契機をつかんだ。写真はその第1号 p78
催し 三原山噴火口探検 昭和8年5月29日 写真、本社の三原山探検は学者も参加し大きな反響を呼んだ。岩田社会部次長 真柄写真課長は ゴンドラで噴煙の地底へ降下し 火口踏査を敢行し p79
役員 正力時代の首脳 大正14年~昭和20年 写真、顧問 小野瀬不二人(大正14年―昭和13年)、編集局長 柴田勝衛(昭和3年―16年)、常務取締役・総務局長 稲葉輪一(昭和15年―20年)、事業部長 庄田良(大正13年―昭和13年)、工務局長 武藤具三(昭和15年―16年)、主筆 山崎光次郎(昭和5年―8年)、取締役・主幹 宮崎光男(昭和17年―19年)、取締役・編集局長 中満義親(昭和17年―20年) p79
製品 ついに太平洋戦争に突入 昭和16年12月9日付夕刊 写真 p82
合併;商品 報知新聞を合併し「読売報知」と題号を改める 昭和17年8月5日付 写真、1号(昭和17年8月5日) p82
海外事業;商品 本社が南方で発行した国策新聞 昭和18年1月1日創刊、昭和19年3月8日創刊 写真、ビルマ新聞、マレー語のバリ新聞 p83
海外事業 南方での報道奉仕 昭和18年1月1日 写真、ビルマ新聞 ビルマ新聞創刊当日の記念撮影。中央黒服が務台社長 その左前川編集局長、右1人おいて八反田業務局長 p83
事業所 空襲で被災・本社築地本願寺へ 昭和20年5月27日 写真、東京・築地の本願寺に仮事務所を開設して新聞を発行した。下は本願寺の臨時編集局 p83
商品 共同新聞発行 昭和20年5月27日付 写真、東京空襲で本社は焼失した。東京五社(朝日・東京・日経・毎日・読売)は協定により1日だけ「共同新聞」を発行した p85
事業所 地下工場の建設 昭和20年春 写真、空襲の激化した昭和20年春東京お茶の水に「地下工場」をつくる計画を進めた。中央と左方に入り口が見える p85
商品;沿革 昭和=終戦後 昭和20年8月15日 写真、終戦の詔書下る p86
催し;社会貢献 アンリ・マチス展 昭和26年3月 写真、東京・上野の国立博物館で行われた本社主催のマチス展は 戦後の荒廃した人心にうるおいを与えた。この8月には日本橋高島屋で「大ピカソ展」も開催 p87
催し;社会貢献 ファン・ゴッホ展 昭和33年10月 写真、本社は昭和33年 東京・国立博物館でゴッホ展を以来田が、これも大変な人気を集めた p87
催し;社会貢献 原子力平和利用博覧会 昭和30年11月 写真、東京・日比谷公園で開かれた本社主催の「原子力平和利用博覧会」は人気を呼び観客の列は日比谷公園に延々と続いた。 p87
商品 大阪読売新聞の創刊 昭和27年11月25日 写真、昭和27年11月25日 30年来の宿願だった大阪へ進出 その第1号を発刊した。その紙面と当時の社屋 p88
商品 歴史的なスクープ「第5福竜丸」事件 昭和29年3月16日 写真、本紙は“死の灰”という言葉を生んだ第5福竜丸事件をスクープした p89
商品 続き物「ついに太陽をとらえた」 昭和29年1月1日 写真、第5福竜丸事件より3カ月早い昭和29年1月1日から本紙は社会面で「ついに太陽をとらえた」という表題で原子力問題の連載を始めた。これが第5福竜丸事件スクープの素地をつくった。 p89
商品 「社会暗黒面摘発」のキャンペーン 昭和26年3月15日付 写真、本社では終戦後しだいに色濃くなった社会の暗黒面摘発のキャンペーンを 昭和26年から精力的に行った。写真はその第1弾となった 「新宿粛正」の紙面 p90
名誉 第1回「菊池寛賞」社会部へ [昭和]28年3月10日 写真、新宿 銚子等の社会暗黒面摘発の本社社会部に対して 第1回菊池寛賞が授賞された。写真はその授賞式 左が原社会部長 中央は作家吉川英治 右は佐々木茂索文芸春秋新社社長 p90
催し;社会貢献 二つの学術調査//日光・華厳滝のナゾを探る  昭和31年1月 写真、本社は「日光華厳滝潜水学術調査」を行った。東京水産大教授・佐々木忠義 東大教授・末広恭雄ら学者も参加し 総合的な学術調査を展開した。写真はしぶきを浴びて滝ツボの潜水者を見守る調査団 p91
催し;社会貢献 二つの学術調査//鳴門の渦潮を解明 昭和31年5月 写真、鳴門海峡の総合学術調査も行われた。海洋観測 潮位潮汐 渦 地質変形 生物資源 気象 音響 水中撮影の8班にわかれて 調査は進められた。写真は新聞紙を投下しての潮流調査(右)と水中班の活躍(下) p91
商品 新機軸の取材・報道//本紙の特色「今日の断面」欄 昭和45年6月2日 写真、激動の70年代 昭和45年6月2日 本社はワイド解説論評面「今日の断面」欄を新設した。はんらんする多様な情報を分析総合して解明 同時に批判と主張を入れて 近代新聞報道に新生面を開いた。写真は「今日の断面」欄創設の紙面の一部 p92
商品 新機軸の取材・報道//〈上右〉「これがアメリカだ」 昭和41年10月10日付紙面 写真、学者と記者の混成機動特派員団による取材・報道という新しい試みが行われた。その最初がアメリカを対象にした「これがアメリカだ」で「これが…だ」シリーズはその後「中国」「ベトナム」と続けられた(写真は昭和41年10月10日付紙面) p92
商品 新機軸の取材・報道//〈上左〉宇宙飛行士の手記 昭和44年8月19日付 写真、宇宙飛行士の手記特報・アメリカのアポロ宇宙探検の諸飛行士の手記を本社はタイム・ライフ社と特約して独占掲載した。なかでも人類がはじめて月を歩いたアポロ11号の3飛行士の手記は 読者を魅了した(写真はアポロ11号の3飛行士の手記第1回 昭和44年8月19日付) p92
商品 新機軸の取材・報道//「インサイド・レポート」と「3面トピックス」 昭和50年10月21日付 写真、昭和50年10月21日付朝夕刊から紙面刷新を行い 朝刊に「インサイド・レポート」 夕刊に「3面トピックス」がお目見得した。編集局各部の記者が取材に協力 “おもしろくて為になる新聞”作りをめざした p93
役員 戦後の役員(既出分は除く) 昭和17年~昭和50年 写真、八代目社長 馬場恒吾 昭和20年―26年、専務取締役 小林光政 昭和17年―21年、取締役 品川主計 昭和20年―38年、取締役 清水与七郎 昭和20年―21年、代表取締役・副社長・編集主幹 安田庄司 昭和21年―30年、常務取締役・業務局長 武藤三徳 昭和21年―26年、専務取締役・編集主幹 小島文夫 昭和20年―40年、取締役(論説委員) 四方田義茂 昭和20年―26年、取締役(東亜部長) 金近靖 昭和20年―21年、取締役(整理部長) 三浦薫雄 昭和20年―21年、[以下略] p94
役員 現在の社主・役員・局長・顧問 写真、社主 正力亨、代表取締役・社長 務台光雄、代表取締役・副社長 編集主幹 原四郎、代表取締役・専務取締役・役員室長・販売人事担当・関連会社担当 長倉栄、代表取締役・専務取締役・広告・出版担当 深見和夫、専務取締役 事業本部長 橘秀雄、常務取締役 経理局長 佐々木芳雄、常務取締役 編集局長 為郷恒淳、常務取締役 工務局長 岡久雄、取締役・販売局長 丸山巌、[以下略] p95
経営理念 読売信条 昭和21年9月1日から p96
名誉;催し 読売新聞をタイム・カプセルに収容 昭和40年10月16日 写真、ニューヨーク世界博覧会(昭和40年)の記念行事として 20世紀の人類の遺産を5000年後の世界に伝える「タイム・カプセル」の収容品目に 読売新聞が世界の五つの新聞とともに選ばれた。他の新聞は▽ニューヨーク・タイムズ(アメリカ)▽プラウダ(ソ連)▽フランスソワール(フランス)▽ガーディアン(イギリス)▽ラプセンサ(アルゼンチン)の5紙。写真は10月16日タイム・カプセルを埋める瞬間 p96
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