沿革
| 北日本製紙の歴史 |
1908(明治41)年~1970(昭和45)年 |
写真、創業以来のレンガ造り建屋、江別工場(1930年代、1969年代)、富士製紙時代の面影を残す昭和初期の江別工場、昭和50年代まで使用された旧事務所、東洋一を誇った186インチ抄紙機、石狩川からの丸太引揚風景(大正時代)、昭和初期の原木割り、昭和初期の仕上げ作業、戦後発掘された王子航空機資料、木製戦闘機キ・106、KP木釜、戦後復旧した2号抄紙機、タービン発電機、ユーザーでのクラフト紙製袋作業、1号抄紙機、7号特殊紙マシン、ペーパーポットによる育苗と旭川市郊外のビート畑、2次加工の拠点宇都宮工場 |
〔1〕 |
役員
| 歴代社長 |
|
写真、初代 高嶺明達(1947-1949)、2代 沖島鎌三(1949-1953)、3代 斎藤孝(1953-1962)、4代 山内聡(1962-1970) |
〔4〕 |
役員
| 役員在任期間一覧 |
1947年12月~1970年8月 |
北日本製紙、図 |
p44 |
財務・業績
| 資本金・売上高・損益の推移 |
1947年度~1969年度 |
北日本製紙、表、グラフ |
p45 |
生産
| 生産量の推移 |
1948年度~1969年度 |
北日本製紙、表、グラフ、紙、販売用パルプ |
p46 |
沿革
| 年表 |
1906(明治39年)~1970(昭和45年) |
北日本製紙 |
p47 |
沿革
| 日本パルプ工業の歴史 |
1937(昭和12年)~1979(昭和54年) |
写真、本社(新丸ビル)、日南工場、米子工場、「白亜の殿堂」と呼ばれた飫肥工場、(1949年)、米子工場(1952年)、飫肥工場竣工、パルプマシン(日南)、改造200m3 SP木釜、建設当時の抄造機(米子)、PR誌『ほわいと』、140インチ抄造機(米子)、紙の選別作業(1954年)、8号抄造機(日南)、2号抄造機(米子)、1号加工機(日南)、高級白板紙抄紙機(米子)、レノックスカッター(日南)、ロータリーキルン(米子)、巻取製品と半判製品、加工紙、情報用紙とラベル、カートン、紙皿製品とパンフレット、見本帳、PR誌、「ニッパコート・オフリン」全面採用の『LIFE』 |
〔49〕 |
役員
| 歴代社長 |
|
写真、初代 菊本直次郎(1937-1939)、2代 高島菊次郎(1939-1943)、3代 井上憲一(1943-1943)、4代 足立正(1943-1945)、5代 中村愛作(1945-1953)、6代 太田武雄(1953-1969)、7代 荒川忠造(1969-1973)、8代 三嶋栄(1973-1979) |
〔52〕 |
役員
| 役員在任期間一覧 |
1937年6月~1979年2月 |
日本パルプ工業、図 |
p126 |
財務・業績
| 資本金・売上高・損益の推移 |
1937年度~1977年度 |
日本パルプ工業、表、グラフ、年度、資本金、売上高、経常利益、純利益 |
p130 |
生産
| 生産量の推移 |
1937年度~1977年度 |
日本パルプ工業、表、グラフ、年度、溶解用パルプ、製紙用パルプ、パルプ計、洋紙、高級白板紙、生産計 |
p131 |
沿革
| 年表 |
1937(昭和12年)~1979(昭和54年) |
日本パルプ工業 |
p132 |
沿革
| 東洋パルプの歴史 |
1950(昭和25年)~1989(平成元年) |
写真、世界初のチップ専用船「呉丸」、本社(鉄鋼ビル)、呉工場、瀬戸内海からの呉工場(1970年頃)、2号建屋、パルプ抄上げ中のカミールマシン、上空より見た呉工場(1955年頃)、第1次建設竣工式、パルプマシンと自動梱包装置、4号抄紙調成工程、5号抄紙機、連続蒸解釜、4号抄紙プレスパート、クラフトパルプ製品群 |
〔137〕 |
役員
| 歴代社長 |
|
写真、初代 谷清一(1950-1951)、2代 足立正(1951-1953)、3代 井上富三(1953-1956)、4代 植場鉄三(1956-1963)、5代 渡辺佳英(1963-1974)、6代 青柳忠一(1974-1981)、7代 武内貞一(1981-1987)、8代 大国昌彦(1987-1989) |
〔140〕 |
役員
| 役員在任期間一覧 |
1950年3月~1989年3月 |
東洋パルプ、図 |
p204 |
財務・業績
| 資本金・売上高・損益の推移 |
1949年度~1988年度 |
東洋パルプ、表、グラフ、年度、資本金、経常利益、純利益 |
p207 |
生産
| 主要製品生産量およびその他生産高の推移 |
1949年度~1988年度 |
東洋パルプ、表、グラフ、年度、紙、パルプ、その他生産高 |
p208 |
沿革
| 年表 |
1949(昭和24年)~1989(平成元年) |
東洋パルプ |
p209 |
沿革
| 神崎製紙の歴史 |
1948(昭和23年)~1993(平成5年) |
写真、東京本社(1951年)、神崎工場、富岡工場、1955年頃の神崎工場と製薬塔、被災した神崎工場(1948年)、専用側線開通(1953年)、3号KSコーター、建設中の5、6号抄紙機(1953年頃)、1号抄紙機(1949年)、印刷センター、アート紙見本帳(1939年頃)、順木風景、土場での消火訓練、選別風景、フラッシュコーター、建設中の富岡工場(1959年頃)と完成後のマシン建屋、3号マシンの抄出し、1990年完成の3KP(蒸解・洗晒)、建設中のエンボスマシン(1969年)、辰巳事業所へのトンネル工事(1992年)、KANZAN1号コーター竣工式、2号マシン、6号キャストコーター |
〔215〕 |
役員
| 歴代社長 |
|
初代 加藤藤太郎(1948-1964)、2代 広瀬藤四郎(1964-1969)、3代 遠藤福雄(1969-1985)、4代 河村俊彦(1985-1993) |
〔218〕 |
役員
| 役員在任期間一覧 |
1948年9月~1993年9月 |
神崎製紙、図 |
p318 |
財務・業績
| 資本金・売上高・損益の推移 |
1948年度~1993年度 |
神崎製紙、表、グラフ |
p321 |
生産
| 生産量の推移 |
1948年度~1993年度 |
神崎製紙、表、グラフ |
p322 |
沿革
| 年表 |
1948(昭和23)年5月~1993(平成5)年10月 |
神崎製紙 |
p324 |
沿革
| 本州製紙の歴史 |
1949(昭和24)年~1996(平成8)年 |
写真、3社分割後の富士工場、江戸川工場、岩渕工場、中津工場、滋賀工場、釧路工場、富士工場(1950年代前半)、ドラムバーカー増設工事、建設中の7号マシン、新設された6号マシン、皮剥ぎ、スプリッター作業、SP15トン木釜と第2水力発電所、中津工場(1950年代前半)、正門、土場、原質作業、仕上げ作業、淀川工場(1950年代前半)、江戸川工場正門、岩渕工場(1950年代後半)、熊野工場3号マシン、名古屋化学工場、釧路工場(1963年)、第1期工事中のマシン室とエバポレーター、Kライナー用1号マシン、モニター風景(本州パッケージングセンター)、洋紙転換開始後の釧路工場、中芯用3号マシンとKライナー用2号マシン、Kライナー用4号マシン、機械化の進んだ包装作業、輸送テスト、東京都大田市場(1994年)、江戸川工場白板紙用5号マシン、岩渕工場N-1コーター、富士工場洋紙用N-1マシン、滋賀工場シュリンクフィルムマシン、筑波段ボール事業部コルゲーター、富士加工事業所1BC(印刷打抜機)と輸出みかん内箱用原紙、回収された古紙、不織布製品、絶縁材料、トランスフォーマーボード、福岡製紙株式会社、日本足袋製紙所(1937年)と1号マシン、東信製紙株式会社、清水工場(1937年)と白板工場(1970年)、松本工場、佐賀板紙株式会社、牛津工場(1942年)と久保田工場(1947年)、本州ダンボール工業株式会社、鶴崎パルプ株式会社 |
〔331〕 |
役員
| 歴代社長 |
|
写真、初代 田辺武次(1949-1956)、2代 木下又三郎(1956-1969)、3代 小泉哲三(1969-1971)、4代 川口利朗(1971-1974)、5代 栖原亮(1974-1982)、6代 田原尚(1982-1988)、7代 米沢義信(1988-1994)、8代 大坪孝雄(1994-1996) |
〔338〕 |
役員
| 役員在任期間一覧 |
1949年8月~1996年9月 |
本州製紙、図 |
p562 |
財務・業績
| 資本金・売上高・損益の推移 |
1949年度~1996年度 |
本州製紙、表、グラフ |
p567 |
生産
| 生産量の推移 |
1949年度~1996年度 |
本州製紙、表、グラフ |
p568 |
沿革
| 年表 |
1949(昭和24)年8月~1996(平成8)年10月 |
本州製紙、合併会社 |
p569 |