(株)講談社『講談社の80年 : 1909~1989』(1990.07)

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月日 事項 年表種別
明治42年(1909) 11月14日 東京帝国大学法科大学緑会弁論部発会演説会開催(野間清治《せいじ》が明治40年以来同大学首席書記として勤務のかたわら、この弁論部発足に尽力。この演説会の速記録がまとめられ、「雄弁《ゆうべん》」創刊号となった)。 講談社年表
11月 野間清治、東京市本郷区駒込坂下町48番地(通称団子坂《だんござか》。→昭9.7.29)に大日本雄弁会の看板をかかげ創業。ときに数え年32歳(日は不詳、緑会弁論部発会演説会の後、間もなく。→明44.11.3)。 講談社年表
明治43年(1910) 2月11日 「雄弁《ゆうべん》」創刊。発行所は大日本図書(株)(月刊、菊判、204ページ、定価20銭)。好評増刷し3刷まで1万4000部を発行(→明44.11.3、→昭16.10.―)。印刷・製本・販売等は大日本図書に一任し、編集費として1000部につき30円を受け取る契約であった。社員は野間清治《せいじ》のほかに2名(井沢弘・安元実発)、さらに手伝い2名、そして出入りの学生数名の協力で「雄弁」は編集された。野間左衛《さえ》(清治夫人)は、小学校奉職のかたわら会計を担当した。 講談社年表
大正2年(1913) 1月27日 野間清治、東京帝国大学法科大学書記を辞職し、雑誌事業に専念。 講談社年表
3月29日 高橋宭一《くんいち》入社、少年の初採用(社業推進の一翼に採用したが、野間清治は彼らの薫育《くんいく》に力を入れた。→昭10)。 講談社年表
大正4年(1915) - (この年) 研究会が発足したと思われる(社業全般にわたり検討する委員会のはじめ。毎月2回定例会議。会長は野間主幹《しゅかん》。大日本雄弁会の代表者野間清治を「主幹」と呼んだ。→大14.10.―)。 講談社年表
大正6年(1917) 1月 「雄弁」新年号に雄弁会同人の年賀あいさつを野間清治主幹《しゅかん》以下21名連名で掲出。最初の連名年賀あいさつ。 講談社年表
大正7年(1918) 1月 「雄弁」新年号に雄弁会同人の年賀あいさつを掲出(野間清治主幹《しゅかん》以下25名連名で)。 講談社年表
3月7日 野間清治、日本製紙(株)取締役に就任。 講談社年表
大正8年(1919) 4月12日 野間清治、中外印刷(株)の監査役に就任。 講談社年表
大正9年(1920) 1月 野間清治、書籍商組合評議員に推薦される。 講談社年表
大正10年(1921) 2月 野間清治、病気のため赤羽別荘で静養。 講談社年表
7月10日 野間清治、住居を団子坂から音羽へ移転。旧住居を全部社用とする(第7次社屋拡張)。 講談社年表
11月 エリザベート・シェーン著・窪田十一訳『人肉の市』刊。ベストセラーに。数年間にわたり13万6500部発行。単行本としては初の1ページ広告を新聞に掲出。野間清治は羊頭狗肉《ようとうくにく》的宣伝をいさめた。 講談社年表
- (この年) 野間清治、三大社是「渾然一体、誠実勤勉、縦横考慮」を提唱(個々には大正5年ころから社内で宣伝・実践されてきたものを、社是の形で新入社員に説示した)。 講談社年表
大正11年(1922) 1月 野間清治、この月より毎週2回、自己の体験を口述し速記録として残す。 講談社年表
3月 野間恒、千駄木尋常小学校を卒業。以後、野間清治が膝下《しっか》において薫陶《くんとう》。 講談社年表
大正14年(1925) 10月 野間清治社長(大日本雄弁会講談社と改称後は代表者を「社長」と呼んでいる。←大4)、音羽の邸内に野間道場(剣道場)を開設(→昭8.11.―)。 講談社年表
11月28日 「幼年倶楽部」創刊(大正15年1月号、月刊、菊判、216ページ、定価50銭。これで野間清治念願の9大雑誌でそろう。→昭19.3.―)。 講談社年表
大正15年(1926) 4月 野間清治社長、静養のため、関東・東北方面へ温泉巡りの旅に出る。10ヵ月余で帰京。 講談社年表
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