横浜護謨製造(株)『四十年史』(1959.01)

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月日 事項 年表種別
大正3年(1914) - 横浜電線製造株式会社常務取締役桜井貢吉病気のため退任し、古河合名会社販売部長中川末吉後任に選ばる 参考事項
大正11年(1922) 8月 取締役社長河井浩辞任し取締役中川末吉社長事務取扱となる 当社関係事項
大正13年(1924) 4月 社長事務取扱、取締役中川末吉を社長に選任す 当社関係事項
昭和3年(1928) 7月 取締役社長中川末吉グ社との間に当社の資本整理並びに工場復興に関する契約締結のため渡米し十月帰国す 当社関係事項
昭和4年(1929) 12月 役員改選の結果取締役中川末吉、後藤元治、佐竹房夫、小室泰治、長谷川鉄太郎、ジェー・デー・チウ、テー・ジー・グラハム、エス・エム・ゼットが何れも重任し、また会社を代表すべき取締役に、取締役中川末吉、常務取締役に後藤元治、佐竹房夫が何れも重任す 当社関係事項
昭和7年(1932) 2月 取締役社長中川末吉横浜商工会議所を代表して満州視察に出発し翌月帰社す 当社関係事項
昭和8年(1933) 4月 取締役社長中川末吉横浜商工会議所副会頭に重任 当社関係事項
昭和9年(1934) 9月 取締役社長中川末吉タイヤ市場の協定に乗出す 当社関係事項
昭和10年(1935) 2月 取締役社長中川末吉は欧米各国視察のため出発し九月帰国す 当社関係事項
昭和11年(1936) 2月 取締役退任、後藤元治、エス・エム・ゼット両氏の補欠として萩原拳吉、小原清次が選出され、監査役退任の中田敬義及び早川鉄冶両氏の補欠として後藤元治、木村豊吉が選任さる。なお会社を代表すべき取締役に中川末吉、萩原拳吉の両氏が選任さる 当社関係事項
昭和14年(1939) 7月 会長制が復活され取締役社長中川末吉会長に、また取締役萩原拳吉が専務取締役に就任す 当社関係事項
昭和15年(1940) 11月 紀元二千六百年記念式典に当り取締役会長中川末吉正六位に叙せらる 当社関係事項
12月 取締役会長中川末吉ゴム産業刷新協議会会長に就任す 当社関係事項
昭和19年(1944) 5月 代表取締役中川末吉、萩原拳吉代表取締役の地位を退き、生産責任者に専務取締役稲垣平太郎、更に横浜工場生産担当者に工場長取締役宇佐美貞義、三重工場生産担当者に同工場長平佐良介が就任す 当社関係事項
昭和20年(1945) 11月 役員改選の結果、取締役に中川末吉、稲垣平太郎、武村謙、天本淑朗、吉岡鉱太郎、種田健蔵、監査役に平沼亮三、宇佐美貞義が選任さる 当社関係事項
昭和21年(1946) 3月 取締役中川末吉辞任し、尾山和勇、松村昇氏が選任され、専務取締役稲垣平太郎が取締役社長、取締役天本淑朗、尾山和勇が常務取締役に就任す 当社関係事項
昭和22年(1947) 3月 前取締役会長中川末吉は財閥家族として指定さる 当社関係事項
昭和26年(1951) 7月 前取締役会長中川末吉追放を解除せられたるに依り顧問に推薦す 当社関係事項
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