※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和17年(1942) | - | 【渋沢敬三】日本銀行(以下、日銀)副総裁就任、これに伴い第一銀行など辞任。 | 渋沢関係略年譜 |
3月4日 | 福森憲一氏死す。五十六歳。 | [関係事項?] | |
5月 | 浅沼商会は統制会社配給品の取扱業務を辞退して開店休業。 | ||
10月 | メーカー五社、卸十二社で日本感光材料販売株式会社を設立、浅沼の割当株五千株。 | ||
- | 菅保男、日本感材統制会社の常務取締役に就任。 | ||
昭和19年(1944) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』669号を発行、以後休刊する。岩波書店より『渋沢栄一伝記資料』第1巻が刊行される。【渋沢敬三】結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。総裁時代一度も東京を離れず。 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 菅保男新統制会社の理事に就任。 | ||
11月 | 大連出張所の輸入実績を満関写真材料配給統制会社に譲渡して閉鎖。 | ||
- | 浅沼治一再度応召、東京師団司令部勤務。 | ||
昭和20年(1945) | - | 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 | 渋沢関係略年譜 |
1月20日 | 加藤隆助氏死す。七十四歳。 | [関係事項?] | |
3月 | 空襲により大阪支店焼失。 | ||
4月 | 大阪支店仮営業所開設。 | ||
5月 | 右店舗[大阪支店仮営業所]再び焼失。 | ||
10月 | 京都出張所において大阪支店復興準備事務を開始。 | ||
12月 | 卸業務を再開す。 | ||
昭和21年(1946) | - | 【竜門社】財団法人竜門社、財団法人渋沢青淵翁記念会が合同して渋沢青淵記念財団竜門社となる。【渋沢敬三】公職を追放さる。本邸は大蔵省に官邸として貸与、のち財産税にて敷地とともに物納。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 大阪支店焼跡に社屋を建設して業務を開始。 | ||
10月8日 | 浅沼東吾死す。七十歳。 | ||
昭和22年(1947) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』670号を復刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
4月2日 | 森芳太郎氏小田原で死す。五十八歳。 | [関係事項?] | |
昭和23年(1948) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』677号をもって廃刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
12月 | 資本金二百万円の株式会社浅沼商会を設立、合資会社より営業部門を移して業務を開始。 | ||
昭和24年(1949) | - | 【竜門社】政府より曖依村荘が無償返還されることになる。財団法人社会教育協会に依頼して、機関誌『竜門雑誌』を継承する機関誌『青淵』を創刊する。曖依村荘全敷地の約3分の2を売却する。 | 渋沢関係略年譜 |
12月26日 | 浅沼治死す。六十八歳。 | ||
- | 菅保男相談役就任。 | ||
昭和26年(1951) | - | 【竜門社】文部省史料館に日本実業史博物館準備室資料を寄託する。機関誌『青淵』を渋沢青淵記念財団竜門社から発刊する。【渋沢敬三】追放解除。 | 渋沢関係略年譜 |
1月2日 | 浅沼竜吉死す。七十三歳。//(以下事業報告に譲る) |