※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和32年(1957) | - | 【渋沢敬三】第16回ICC総会に日本代表団団長として出席のため渡欧。外務省顧問に就任、「移動大使」として中南米諸国を歴訪。 | 渋沢関係略年譜 |
8月23日 | 新会社設立に向けて発起人会。//西園寺実、小暮和男、小島伝三、梶川有、中原一郎、八十島親義、菊池峻治、小田直清の8名が、8月23日、千代田区丸の内1丁目の第一銀行(後に第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の本店で新会社設立のための発起人会を開催した。新会社が不動産の所有、売買および賃貸借、管理および利用などの事業を営むこと、創立事務所を同銀行本店内に置くことなどを決めた。 | 清和綜合建物の50年 | |
9月 | 新会社の定款作成、取締役・監査役も選任。//発起人会の決議に基づいて定款を作成し、取締役も選任した。梶川有、中原一郎、八十島親義の3名。また監査役には菊池峻治を選任した。 | 清和綜合建物の50年 | |
10月 | 「清和興業株式会社」設立。//新会社「清和興業」の資本金は1,500万円。本社の所在地は東京都中央区馬喰町1丁目。代表取締役には梶川有が就いた。有終会(現・ユウシュウコープ)、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河不動産(現・古河機械金属)。第一銀行(後に第一勧業銀行・みずほ銀行)、朝日銀行、日比谷ビルディング(現・清和綜合建物)、川崎製鉄(現・JFEスチール)、川崎重工業、東洋紡績などが主な株主となる。 | 清和綜合建物の50年 | |
- | ●日本の南極越冬隊が南極大陸初上陸 | ||
- | ●ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功 | ||
- | ●フランク永井「有楽町で逢いましょう」大ヒット | ||
昭和33年(1958) | - | 【渋沢敬三】角川書店より『南米通信 : アマゾン・アンデス・テラローシャ』刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 「堂島第一ビル」が竣工。//最初の物件として着手していた「堂島第一ビル」が竣工した。地上6階、地下1階。延床面積は4,012平方メートル。また同ビル内に、大阪事務所を設置した。 | 清和綜合建物の50年 | |
- | ●関門国道トンネル開通(全長3,461メートル) | ||
- | ●東京タワー(高さ333メートル)完工 | ||
- | ●聖徳太子の肖像を採用した1万円札発行 | ||
昭和34年(1959) | - | 【渋沢敬三】日本学術振興会より『明治前日本漁業技術史』刊行。角川書店より『日本魚名の研究』刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 福岡事務所を設置。//福岡市下西町の第一銀行福岡支店内に福岡事務所を設置した。11月には、博多区綱場町に「福岡第一ビル」の建築工事がスタート。 | 清和綜合建物の50年 | |
- | ●皇太子殿下ご成婚 | ||
- | ●岩戸景気で順調な経済拡大続く | ||
- | ●天覧試合で長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打 | ||
昭和35年(1960) | - | 【渋沢敬三】熊本大学における第15回日本人類学会・日本民族学協会連合大会に出席して発病、東京大学医学部附属病院に入院、療養。 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 南浦和に土地購入、第一銀行への賃貸社宅用に。//第一銀行へ賃貸用の社宅用地として、埼玉県浦和市南浦和2丁目13番1号に1,323平方メートルの土地を購入した。第一銀行の社宅用地の第1号となった。 | 清和綜合建物の50年 | |
- | ●池田首相、所得倍増計画を発表 | ||
- | ●東証ダウ平均が1,000円の大台を突破 | ||
- | ●カラーテレビ放送開始 | ||
昭和36年(1961) | - | 【渋沢敬三】角川書店より『犬歩当棒録 : 祭魚洞雑録第三』刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 「福岡第一ビル」が竣工。//地上7階・地下2階、鉄骨鉄筋コンクリート造の「福岡第一ビル」が竣工した。延床面積は9,662平方メートル。第一銀行福岡支店、いすゞ自動車、川崎製鉄、昭和石油、三鷹などが主なテナントとなった。 | 清和綜合建物の50年 | |
6月 | 「鷺宮アパート」を購入。//東京都中野区鷺ノ宮2丁目に建築中のアパートを購入。敷地面積は1,013平方メートル。建物は鉄筋コンクリート造の地上4階建てで、延床面積805平方メートル。 | 清和綜合建物の50年 |