※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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文化6年(1809) | - | 〈店員役割書〉作成 | 虎屋関係 |
文化13年(1816) | - | 十代光広、相続 | 虎屋関係 |
文政8年(1825) | - | 異国船打払令 | 社会・菓子関係 |
天保11年(1840) | - | 【渋沢栄一】天保11年2月13日(1840年3月16日)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれる。幼名は市三郎。渋沢家は代々の農家で養蚕と製藍を兼業。〔0歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 十一代光寳、相続 | 虎屋関係 | |
- | この頃二口屋より経営権を譲りうける | 虎屋関係 | |
天保12年(1841) | - | 天保の改革 『江戸流行菓子話船橋』刊行 | 社会・菓子関係 |
天保15年(1844) | - | 十二代光正、相続 | 虎屋関係 |
嘉永6年(1853) | - | 【渋沢栄一】家業の畑作、養蚕、藍葉の買入、藍玉製造販売に精励。〔13歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | ペリー来航 | 社会・菓子関係 | |
1854年 | - | 日米和親条約調印 | 社会・菓子関係 |
万延元年(1860) | - | 和宮月見の儀に際し月見饅頭の御用記録あり | 虎屋関係 |
1860年 | - | 桜田門外の変 | 社会・菓子関係 |
文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 将軍家茂入京にあたって御用を承る | 虎屋関係 | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 大政奉還 | 社会・菓子関係 | |
明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 光保(二口屋相続)、明治天皇東京行幸に同行 | 虎屋関係 | |
- | 明治維新 | 社会・菓子関係 | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 光保、小川町安部勘十郎屋敷(千代田区神田錦町一丁目)に東京営業所を開設 数日後、辰の口伝奏屋敷(千代田区丸の内一丁目)に移す その後(年不詳)南槙町(中央区八重洲二丁目)に移転 | 虎屋関係 | |
- | 明治天皇が東京に遷都 | 社会・菓子関係 | |
- | この頃幕府御用菓子屋閉店が続く | 社会・菓子関係 | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 新橋・横浜間に鉄道開通 | 社会・菓子関係 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 木村屋あんパンを販売 | 社会・菓子関係 |