清水建設兼喜会『清水建設兼喜会五十年』(1969.02)

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月日 事項 年表種別
明治24年(1891) - 清水釘吉、四代主の後見人となる。 本社関連
明治27年(1894) 2月 技師長渡辺譲退店、清水釘吉(のち、社長)技師長を兼任。 本社関連
8月 清水釘吉、日清戦役に出征。 本社関連
明治28年(1895) 6月 清水釘吉、凱旋。 本社関連
明治31年(1898) 10月 四代満之助成年に達し、清水釘吉後見を辞退。//四代清水満之助は、先代死去の折10才の幼童であつたため、清水釘吉がこれを補弼してきたが、この時点で後見人の地位を辞し、同族として支配人原林之助とともに営業の第一線に立ち、なお病弱な四代主に代つて店務の万般を統括することになつた。のち明治33年、家法の定めに従つて営業監督となり、会計監督清水一雄と共に店主を補佐する。 本社関連
明治32年(1899) 10月 清水釘吉、台湾を視察。 本社関連
明治33年(1900) 8月 清水釘吉、営業監督となる。 本社関連
明治34年(1901) 11月 清水釘吉、欧米視察。 本社関連
明治35年(1902) 8月 清水釘吉、帰朝。 本社関連
明治37年(1904) 8月 清水釘吉、日露戦役に出征。 本社関連
明治38年(1905) 9月 清水釘吉、凱旋。 本社関連
明治41年(1908) 10月 清水釘吉、韓国視察。 本社関連
大正元年(1912) 11月 支配人制を廃止し営業方面は清水釘吉、会計方面は清水一雄の直接担当となる。 本社関連
大正13年(1924) - 技師小笹徳蔵、「設計部独立案趣意書」を店長清水釘吉に提出。//工事長制度は業績を高めるものであつた片面、謂ゆる工事部の自由割拠によつて経営の根本方策を往々にして攪乱される傾向も出て、当面の技師長を中心とした設計部の地位は次第に軽視される傾きにあつた。それは又、建築士徳義規約第三条と関連して設計部独立問題の因をなした。しかし、この問題も店長の意向の表明と小笹技師の趣意書提出に伴い、検討段階に入り、昭和2年の機構改革・職制変更に至る。 本社関連
昭和9年(1934) 11月 副社長制を再び採用。//社長清水釘吉、副社長清水一雄・清水揚之助。 本社関連
昭和11年(1936) 11月 社長清水釘吉寿像除幕式を挙行。 本社関連
12月 社長清水釘吉、エトアルコンマンドールノアル勲章(フランス)を受ける。 本社関連
昭和13年(1938) 8月 東京兼喜会役員決定。//本社側=名誉顧問清水釘吉・清水一雄、名誉会長清水揚之助、相談役森田正太郎・福島政吉・飯高達夫。以下略//本会側=会長石井鶴次郎、副会長戸倉久次郎・金子兵次郎、幹事柏崎清次・山崎鹿之佐・伊藤治郎松以下略。 本社関連
昭和15年(1940) 11月 清水釘吉、社長を辞任し相談役となる。 本社関連
昭和17年(1942) 4月 清水釘吉翁伝記刊行会を設置。 本社関連
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