※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治34年(1901) | - | 【渋沢栄一】大阪瓦斯会社監査役。東京・飛鳥山邸を本邸とする。京釜鉄道株式会社取締役、後に取締役会長。茨城採炭株式会社創立、相談役。〔61歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月27日 | 山陽線全通 | 一般事項 | |
11月7日 | 武彦の次男利彦誕生 | 当社関係 | |
11月18日 | 八幡製鉄所操業開始 | 一般事項 | |
明治35年(1902) | - | 【渋沢栄一】合名会社中井商店顧問。清韓協会設立・幹事長。京仁鉄道合資会社取締役社長。兼子夫人同伴で欧米視察。ルーズベルト大統領と会見。〔62歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
12月25日 | 深川製釘所一時閉鎖 | 当社関係 | |
明治36年(1903) | - | 【渋沢栄一】東宮御慶事奉祝会副会長・会計監督。インフルエンザ罹患、喘息を併発。京釜鉄道株式会社理事。日印協会創立・会員(後に会頭)。〔63歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 武彦、北海道鉄道(株)に入社、同時に函館船渠(株)の業務にも従事 | 当社関係 | |
明治37年(1904) | - | 【渋沢栄一】風邪をこじらせ長期に静養。韓国興業株式会社設立、監督。〔64歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月10日 | 日露戦争勃発 | 一般事項 | |
明治38年(1905) | - | 【渋沢栄一】韓国皇帝より勲一等太極章。移転した養育院感化部井之頭学校と改称、開校式。徳川慶喜・伊藤博文らを飛鳥山邸(曖依村荘)に招待、茶室・無心庵にて午餐会。〔65歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月27日 | 日本海海戦 | 一般事項 | |
9月5日 | 日露講和条約に調印 | 一般事項 | |
- | 武彦、北海道鉄道(株)を退社、函館船渠(株)支配人に就任 | 当社関係 | |
明治39年(1906) | - | 【渋沢栄一】大日本麦酒株式会社設立、取締役。南満州鉄道株式会社設立委員。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。大日本製糖株式会社設立、相談役。名古屋電力株式会社創立・相談役。東海倉庫株式会社創立・相談役。明治製糖創立・相談役。〔66歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | 武彦、函館船渠(株)を退社をし帰京 | 当社関係 | |
11月5日 | ファーバー・フォークト商会と販売代理契約を締結 | 当社関係 | |
12月1日 | 武彦、東京市京橋区五郎兵衛町に山武商会を開店(間口6間、店員2名) | 当社関係 | |
明治40年(1907) | - | 【渋沢栄一】帝国劇場会社創立・取締役会長。品川白煉瓦株式会社相談役。日清汽船株式会社創立、取締役。日本皮革株式会社創立、相談役。合資会社沖商会有限責任社員・監査役。帝国製麻株式会社創立、相談役。東明火災海上保険株式会社創立、取締役。〔67歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月12日 | ニューヨークに金融恐慌起こる | 一般事項 | |
- | 山武商会として初めての受注を呉海軍工廠から受ける(調帯綴じ機) | 当社関係 | |
明治42年(1909) | - | 【渋沢栄一】古稀に際し多くの企業・団体の役員を辞任。渡米実業団を組織し団長として渡米。タフト大統領と会見。〔69歳〕【竜門社】組織を変更し、社則を改正。青淵先生の道徳経済合一説を広め実践する団体に性格を変える。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 酸素溶接機、切断機および酸素をドイツから日本に初めて輸入 | 当社関係 | |
- | ファーバー・フォークト商会が倒産。武彦、債権回収に活躍 | 当社関係 | |
明治43年(1910) | - | 【渋沢栄一】政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。社団法人東京銀行集会所会長。〔70歳〕【竜門社】青淵先生の七十寿祝賀会を開催する。 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | 店舗を東京市京橋区南伝馬町に移転 | 当社関係 | |
8月22日 | 日韓併合条約に調印 | 一般事項 | |
10月30日 | 日本酸素(資)を設立。武彦、無限責任社員となる | 当社関係 | |
- | (1910年初め)シュッカルト・シュッテ社の日本総代理店となる | 当社関係 |