※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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天正18年(1590) | - | 蘇我埋右衛門、京都で銅製錬・銅細工を開業 | 当社 |
元和9年(1623) | - | 住友家を継いだ蘇我理右衛門の子友以、銅業をもって大阪に移る(1624年寛永元年まで) | 当社 |
天和元年(1681) | 1月 | 住友、吉岡銅山稼行開始(前後三十数年間経営ののち、享保元年―一七一六年終了) | 当社 |
元禄3年(1690) | - | 阿波の人、切上り長兵衛、別子露頭発見 | 当社 |
元禄4年(1691) | 8月1日 | [閏8月]住友の手により別子銅山の稼行開始 | 当社 |
元禄7年(1694) | 4月25日 | 別子銅山大火 | 当社 |
宝暦12年(1762) | - | 別子、隣接立川銅山を合併 | 当社 |
1868年 | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 別子、官軍に一時封鎖される | 当社 | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 別子立川に大阪鰻谷の銅製錬所を移す | 当社 | |
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月20日 | 日本坑法公布 | 連系会社・業界・一般 | |
- | 住友、蒸気船白水丸を新居浜・阪神間に就航させる | 連系会社・業界・一般 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 仏人技師ラロックを迎え、別子銅山近代化に着手 | 当社 | |
明治8年(1875) | - | 【渋沢栄一】第一国立銀行頭取(後に株式会社第一銀行頭取)。商法講習所創立を支援。〔35歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
12月 | 大阪鰻谷邸にあった事務所を分離して川口富島町に住友本店設置//住友、鉱山事業に関しフランスへ留学生派遣 | 連系会社・業界・一般 | |
明治9年(1876) | - | 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。養育院事務長。深川福住町(現在の東京都江東区永代)に転居。〔36歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月 | 別子、東延斜坑(延長五二六メートル)の開さくに着手(明治二八年一月完成) | 当社 | |
明治11年(1878) | - | 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 別子、筏津坑開坑 | 当社 | |
明治12年(1879) | - | 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月 | 新居浜港御代島築港完成 | 当社 | |
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | 別子、ダイナマイト使用実験に成功、鉱業に使用の最初 | 当社 | |
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 住友家法制定 | 連系会社・業界・一般 | |
明治16年(1883) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社相談役、同社工場落成。 東京電燈会社創立(後に委員)。伊藤兼子(かね子)と再婚。〔43歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 別子、惣開に洋式製錬所建設着工(明治二一年一一月完成) | 当社 | |
明治19年(1886) | - | 【渋沢栄一】「竜門社」創立。東京電灯会社開業(後に委員)。〔46歳〕【竜門社】竜門社が東京・深川福住町の青淵先生邸内に創立する。機関誌『竜門雑誌』創刊号を刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 別子、第一通洞(延長一〇二〇メートル)開通 | 当社 |