※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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天保11年(1840) | - | 【渋沢栄一】天保11年2月13日(1840年3月16日)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれる。幼名は市三郎。渋沢家は代々の農家で養蚕と製藍を兼業。〔0歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月13日 | 渋沢栄一、武州榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)にて出生(幼名は市三郎) | 当社(創業前史) | |
7月 | (清)阿片戦争起こる | 業界および一般 | |
安政5年(1858) | - | 【渋沢栄一】従妹尾高千代(ちよ、尾高惇忠の妹)と結婚。〔18歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月7日 | 梅田雲浜ら京都・江戸で尊攘派の志士次々に逮捕される | 業界および一般 | |
12月7日 | 名を栄二郎と改める。千代と結婚。(維新後栄一と名乗る) | 当社(創業前史) | |
文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月7日 | 高杉晋作ら奇兵隊を編成 | 業界および一般 | |
11月8日 | 従兄弟の渋沢喜作ら有志と攘夷を計画。中止して喜作と京都に逃れる | 当社(創業前史) | |
元治元年(1864) | - | 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 一橋家に出仕。財政改革殖産興業に活躍 | 当社(創業前史) | |
6月5日 | 新撰組、池田屋を襲撃 | 業界および一般 | |
慶応2年(1866) | - | 【渋沢栄一】徳川慶喜、徳川宗家を相続(後に征夷大将軍)し、栄一は幕臣となる。〔26歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
12月5日 | 徳川慶喜征夷大将軍、内大臣に補任される | 業界および一般 | |
12月 | 幕臣となる | 当社(創業前史) | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月11日 | 徳川慶喜の弟、民部大輔昭武に従い、フランスに渡航 | 当社(創業前史) | |
10月24日 | 慶喜将軍職の辞職を請う | 業界および一般 | |
12月9日 | 王政復古の大号令 | 業界および一般 | |
慶応4年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月3日 | 戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)起こる | 業界および一般 | |
12月 | 日本に帰国。駿河藩勘定組頭を命ぜられる | 当社(創業前史) | |
明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月8日 | 明治と改元し、一世一元の制を定める | 業界および一般 | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月16日 | 静岡において日本最初の株式組織商法会所(のち常平倉と改称)設立 | 当社(創業前史) | |
3月28日 | 東京遷都 | 業界および一般 | |
6月17日 | 諸藩主の版籍奉還 | 業界および一般 | |
11月5日 | 明治新政府に出仕。租税正、以後大蔵少丞、大蔵大丞、紙幣頭に累進 | 当社(創業前史) |