(株)にんべん『かつお節物語 : 日本の味から世界の味へ : かつお節を科学して二八〇年』(1979.08)

"高津伊兵衛"が書かれている年表項目はハイライトされています。

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月日 事項 年表種別
寛永元年(1624) - (寛永年間)初代高津与次兵衛(初代高津伊兵衛の祖父)、生地尾張の国(愛知県)から勢州(三重県)四日市中町に移り住み、雑穀・油・干鰹を商う “にんべん”とかつお節の歴史
延宝7年(1679) 3月17日 初代高津伊兵衛、二代目与次兵衛の末子として四日市に生まれる。幼名伊之助 “にんべん”とかつお節の歴史
明和元年(1764) 5月4日 三代目妻死去三三歳(曇霊妙優信女)。三代目追遺訓書き出す「追遺訓 甲申五月四日に妻死す。しかるに私もすでに老年となり子供も少ない。私の死後子孫が我家の由来を知らず、先祖の祭事を廃することをおそる。そのため祖先の霊位、年月を記し、かつその行跡を述べてこの書を遺さんとす。我が子孫が私の行いの不善をかえりみて、これをまね、怠惰におちいる者があったとしても我が祖先がこの家の業を興すにあたり、その容易ならざる徳を察すれば家をととのえ、身を修むるための一助とならんことをのぞむ。明和元年甲申七月一五日 三代目高津伊兵衛幸通」 “にんべん”とかつお節の歴史
嘉永2年(1849) 6月9日 七代目死去四四歳(賢道令徳居士)。八代目当主となる。八代目は七代目娘あいの婿養子として、牛込の大阪屋という江戸でも指折の質屋の息子で、七代目が見込んでたってと望んでもらい受けた人だけあって中興の祖といえる傑物。勘定奉行から御用達を命ぜられ、徳川五人衆(仙波太郎兵衛、中井新右衛門、鹿島清左衛門、後藤長左衛門、高津伊兵衛八代目)に挙げられ苗字帯刀を許される。幕府に莫大な御用金をおさめる “にんべん”とかつお節の歴史
明治37年(1904) 6月 『東都日報』という新聞が「高津伊兵衛山師仕事に手を出しまさに破産せんとす」と根も葉もないことを書きたてたため、一六日、一円切手五四〇〇〇枚を現物に引換、翌日も数千人おしかけ日本橋通り交通ストップ。取付騒ぎは三日間読いた。この時のことが、明治三七年七月発行の『東京』第一四号五三頁に新聞の概要として載っている “にんべん”とかつお節の歴史
明治44年(1911) - 『日本橋記念誌』に江戸時代の“にんべん”の店舗写真が載る。『人事興紳録』によれば、多額納税者として有名な貴族院議員渡辺治右衛門の直接国税一一八四円に対し高津伊兵衛七三四〇円納税とある “にんべん”とかつお節の歴史
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