※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
---|---|---|---|
大正2年(1913) | - | 【渋沢栄一】伯剌西爾拓植株式会社創立準備委員。日本結核予防協会創立・副会頭(後に会頭)。中国興業株式会社(後の中日実業)創立、相談役。日本実業協会創立・会長。帝国飛行協会成立、評議員。〔73歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | ダライ・ラマ一三世 チベットへ戻る[原本は大正元年 1913年] | 社会の動き | |
- | 多田等観 チベットに到着[原本は大正元年 1913年] | 社会の動き | |
大正3年(1914) | - | 【渋沢栄一】東北九州災害救済会創立、副総裁。合資会社国際通信社設立、相談役。日中経済界の提携のため中国訪問。財団法人国産奨励会設立準備委員総代、顧問。〔74歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
8月9日 | 幸治四男・直三 生まれる | 笹気出版印刷関連 | |
大正4年(1915) | - | 【渋沢栄一】帝国蚕糸株式会社相談役。渋沢同族株式会社設立、社長は敬三。パナマ・太平洋万国博覧会視察のため渡米。ウイルソン大統領と会見。〔75歳〕【渋沢敬三】渋沢同族株式会社設立、同社長就任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 東北帝国大学に医学部設置 | 社会の動き | |
- | 杉本京太 邦文タイプライターを発明 | 社会の動き | |
大正6年(1917) | - | 【渋沢栄一】日米協会創立・名誉副会長。飛鳥山邸(曖依村荘)に晩香廬落成、喜寿の祝いに合資会社清水組より贈られる。〔77歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 杉本京太ら『日本タイプライター(株)』設立 | 社会の動き | |
大正10年(1921) | - | 【渋沢栄一】ワシントン軍縮会議実況視察のため渡米。ハーディング大統領と会見。〔81歳〕【渋沢敬三】東京帝大経済学部卒業。横浜正金銀行へ入行。 | 渋沢関係略年譜 |
8月10日 | 笹気幸治 仙台市国分町に笹気印刷所創業//当時 書籍印刷をほとんど東京に依存していた業界にさきがけて「邦文モノタイプ鋳植機」を購入、『常に新しい活字による印刷』を始める | 笹気出版印刷関連 | |
12月 | 宮沢賢治 稗貫農学校(後花巻農学校)教師に | 社会の動き | |
大正11年(1922) | - | 【渋沢栄一】小畑久五郎翻訳、栄一序文『アンドルー・カーネギー自伝』冨山房より刊行。日仏協会会頭。アルメニア難民救済委員会委員長。〔82歳〕【渋沢敬三】横浜正金銀行ロンドン支店転任。 | 渋沢関係略年譜 |
1月27日 | 東京高等工芸学校に印刷工芸科設置(現千葉大学) | 社会の動き | |
4月25日 | [東京高等工芸学校印刷工芸科]第一回入学式 | 社会の動き | |
8月29日 | 東北帝国大学に法文学部設置 | 社会の動き | |
- | 中川・堀の法学部助教授がおいでになり「仙台でも欧文印刷を」とのおたずね。試行錯誤を重ねて実現できるまで一〇年を要した//この頃幸治次男・慶之助 東北大学岩石鉱床学講座の神津教授のもとにも頻繁に通った | 笹気出版印刷関連 | |
- | 本多光太郎金研所長に | 社会の動き | |
大正12年(1923) | - | 【渋沢栄一】日本無線電信株式会社創立委員。大震災善後会創立・副会長、帝都復興審議会委員。〔83歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 菊地寛「文芸春秋」創刊 | 日本の出版・印刷関連 | |
3月 | 多田等観 日本に帰国 | 社会の動き | |
9月1日 | 関東大震災 | 社会の動き | |
- | 日本タイプライター社製「万能鋳造機」購入 | 笹気出版印刷関連 | |
大正13年(1924) | - | 【渋沢栄一】財団法人日仏会館創立・理事長。東京女学館・館長。〔84歳〕【竜門社】財団法人竜門社となる。 | 渋沢関係略年譜 |
7月24日 | 森沢信夫と石井茂吉「写真植字機」を発明 | 社会の動き | |
大正14年(1925) | - | 【渋沢栄一】製鉄鋼調査会委員。史籍協会評議員。浅草寺臨時営繕局顧問。日本無線電信株式会社設立委員長。飛鳥山邸(曖依村荘)に青淵文庫竣工、傘寿と子爵昇格の祝いを兼ねて竜門社より贈られる。〔85歳〕【渋沢敬三】横浜正金銀行退職。 | 渋沢関係略年譜 |
6月23日 | 「写真植字機」特許認可 | 社会の動き | |
- | 多田等観 東北帝国大学へ | 社会の動き |