※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治42年(1909) | - | 【渋沢栄一】古稀に際し多くの企業・団体の役員を辞任。渡米実業団を組織し団長として渡米。タフト大統領と会見。〔69歳〕【竜門社】組織を変更し、社則を改正。青淵先生の道徳経済合一説を広め実践する団体に性格を変える。 | 渋沢関係略年譜 |
12月29日 | 「商事応答」欄を「商事民事法律顧問」欄に拡張。 | ||
明治43年(1910) | - | 【渋沢栄一】政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。社団法人東京銀行集会所会長。〔70歳〕【竜門社】青淵先生の七十寿祝賀会を開催する。 | 渋沢関係略年譜 |
2月8日 | 「医事顧問」欄を新設、解答者及能健一医学士。 | ||
5月7日 | 元社長斎藤修一郎死去。 | ||
6月20日 | 尾崎喜平記者を長江一帯視察のため特派、その第一信「南京博覧会記」を掲載。 | ||
8月30日 | 合邦記念朝鮮号(四ページ)特集。 | ||
9月11日 | 中外週間画報を毎月曜日付録として時事写真を掲載 | ||
9月21日 | 本社と株式市場間に同文電報器(チェッカー)開通、株式市況の速報に威力を加える。 | ||
11月21日 | 紙面を刷新、各面の行数を増した結果、毎号約二段の内容増加となる、従来隔日に発行していた商況付録は廃止し本紙に載せる、商況欄を十段(一段増)とする。 | ||
明治44年(1911) | - | 【渋沢栄一】日露協会評議員。維新史料編纂会委員。財団法人済生会設立、顧問・評議員。勲一等に叙され瑞宝章を授与される。〔71歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月1日 | 初刊四十ページ。 | ||
5月9日 | 大谷是空(藤治郎)華中長江沿岸各地視察のため出発、その見聞記を本紙に寄せる、六月帰国。 | ||
5月30日 | 従来の一行六号活字十七字詰め、一ページ十段の商況欄を十六字詰め十一段とする。 | ||
6月18日 | 大阪出張所、北区堂島中町一ノ二五に移転。 | ||
8月11日 | 株式会社に改組、資本金十万円(一株百円)全額払い込み、取締役社長に野崎広太就任。 | ||
9月1日 | 広告料金改定、一行五号活字十八字詰め六十銭となる、場所指定一行十銭増。 | ||
10月20日 | 中国に革命動乱発生で、北京、天津、大連、上海、鎮江、九江、漢口、長沙、宜昌、杭州、広東、南京に特派通信員を置く準備を完了した旨を社告する。 | ||
明治45年(1912) | - | 【渋沢栄一】日本鋼管株式会社発起人。日仏銀行相談役。帰一協会創立・幹事。ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。〔72歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月1日 | 初刊四十ページ。 | ||
1月15日 | 「商機」欄を復活し毎月曜日掲載。 | ||
1月24日 | 第一回定時株主総会開催。 | ||
3月27日 | 蚕糸号(四ページ)特集、これを第一回として昭和十七年まで毎年恒例として続く。 | ||
5月29日 | 野崎幻庵(本社社長)の「茶会漫録」第一、二、三集を出版、その後順次刊行し、大正十四年十二月「付録・帰郷雑記」をもって全十二巻完結。 |