※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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弘化4年(1847) | - | 【渋沢栄一】従兄尾高惇忠から漢籍を学ぶ。〔7歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 創始者佐藤助九郎、富山藩砺波の郡柳瀬村に誕生 豪族佐藤助三郎長男、幼名貞次 | 当社 | |
嘉永6年(1853) | - | 【渋沢栄一】家業の畑作、養蚕、藍葉の買入、藍玉製造販売に精励。〔13歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | ペリー、浦賀に来航 | 一般社会 | |
嘉永7年(1854) | - | 幕府、アメリカと和親条約を締結 | 一般社会 |
安政3年(1856) | - | 【渋沢栄一】父の代理で領主安部摂津守の岡部の陣屋で用金の命を受ける。代官が傲慢で栄一を侮蔑、圧制に痛憤し封建の弊に強烈な反感を持つ。〔16歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 幕府、ハリスの駐在を許可 | 一般社会 | |
安政5年(1858) | - | 【渋沢栄一】従妹尾高千代(ちよ、尾高惇忠の妹)と結婚。〔18歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 越中大地震起こる | 一般社会 | |
- | 日米修好和親条約調印 | 一般社会 | |
- | 安政の大獄始まる | 一般社会 | |
安政7年(1860) | - | 桜田門外の変起こる | 一般社会 |
文久2年(1862) | 3月 | 佐藤組発足 佐藤助九郎、16歳で初代となり富山藩の特命により常願寺川筋上滝・水橋間の両岸堤防工事を請負う | 当社 |
- | 坂下門外の変、生麦事件、攘夷論最高潮 | 一般社会 | |
- | 英外相ラッセルとロンドン覚書を調印 | 一般社会 | |
文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 加賀松任の十村役から手取川(粟生川)堤防工事を請負う | 当社 | |
- | 幕府、英仏守備兵の横浜駐屯を許可 | 一般社会 | |
- | 薩英戦争勃発 | 一般社会 | |
文久4年(1864) | - | 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 長州征伐開始 | 一般社会 | |
慶応2年(1866) | - | 【渋沢栄一】徳川慶喜、徳川宗家を相続(後に征夷大将軍)し、栄一は幕臣となる。〔26歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | この年以降、越中4大河川(庄川・神通川・常願寺川・黒部川)の治水工事を一手に請負う | 当社 | |
- | 連年の凶作で全国的に打ちこわし多発 | 一般社会 | |
- | 萩藩士木戸孝允、西郷隆盛らと薩長提携の密約を結ぶ | 一般社会 | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 15代将軍徳川慶喜、大政奉還上表を朝廷に提出 | 一般社会 | |
慶応4年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 王政復古の大号令発せられる | 一般社会 |