※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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嘉永3年(1850) | - | (この年)杉谷雍助、砲身製造のため佐賀藩の洋式反射炉の築造に着手する(1852年に完成―洋式機械工業のはじまり) | 鉄鋼業界の動き |
嘉永4年(1851) | - | (この年)鹿児島藩、製錬所を設け化学器械の製造を始める | 鉄鋼業界の動き |
嘉永6年(1853) | - | 【渋沢栄一】家業の畑作、養蚕、藍葉の買入、藍玉製造販売に精励。〔13歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 江川太郎左衛門、下田郊外中村に反射炉の築造を着手。翌1854年12月韮山に移転完成する | 鉄鋼業界の動き | |
8月 | 幕府、江戸湯島に鋳砲場を設置 | 鉄鋼業界の動き | |
11月 | 幕府、浦賀に造船所を建設 | 鉄鋼業界の動き | |
11月 | 佐賀藩、火術局・製錬局を設置し鋳砲・製艦にのり出す | 鉄鋼業界の動き | |
嘉永7年(1854) | 6月 | 幕府に大砲鋳立届けを出した大名225、計1657門 | 鉄鋼業界の動き |
6月 | これより各藩で反射炉の築造さかんになる | 鉄鋼業界の動き | |
12月 | 水戸藩、江戸石川島に造船所を建設する | 鉄鋼業界の動き | |
安政2年(1855) | 11月21日 | 大島高任、水戸藩の反射炉を築造する(火入れ成功―製鉄技術の先駆者) | 鉄鋼業界の動き |
安政3年(1856) | - | 【渋沢栄一】父の代理で領主安部摂津守の岡部の陣屋で用金の命を受ける。代官が傲慢で栄一を侮蔑、圧制に痛憤し封建の弊に強烈な反感を持つ。〔16歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月4日 | 大島高任、水戸藩反射炉で石炭を用いて銑鉄の溶解に成功する(鉄製レトルトにより石炭を乾溜してコークスを製造し反射炉に使用) | 鉄鋼業界の動き | |
安政4年(1857) | 12月1日 | 盛岡藩、大島高任の指導により釜石鉱山でわが国最初の洋式高炉に火入れ(燃料は木炭) | 鉄鋼業界の動き |
文久元年(1861) | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月28日 | 幕府、長崎飽の浦に熔鉄所を設置、蘭法製鉄をはじめる(8馬力の蒸気ハンマー、15馬力の工作機械用蒸気機関を設備、のちの長崎製鉄所・長崎造船所) | 鉄鋼業界の動き | |
文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | (この年)幕府、関口に大砲製作所を設置(のちの東京砲兵工廠) | 鉄鋼業界の動き | |
慶応元年(1865) | - | 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
8月24日 | 幕府、横浜に製鉄所を設置 | 鉄鋼業界の動き | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月14日 | 15代将軍徳川慶喜、朝廷に大政奉還(徳川幕府の滅亡、武家政治の終焉) | 主なる社会の動向 | |
12月9日 | 朝廷、大政復古の大号令を宣し、維新政府を樹立 | 主なる社会の動向 | |
慶応4年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月14日 | 五カ条の誓文、政体書など新政府の基本方針を発布 | 主なる社会の動向 | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
11月10日 | 政府、東京・京都(中仙道経由)間、東京・横浜間、京都・神戸間、琵琶湖・敦賀間の鉄道建設を決定 | 鉄鋼業界の動き | |
- | (この年)洋鉄の輸入開始 | 鉄鋼業界の動き |