日産自動車(株)『21世紀への道 : 日産自動車50年史』(1983.12)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
昭和17年(1942) - 【渋沢敬三】日本銀行(以下、日銀)副総裁就任、これに伴い第一銀行など辞任。 渋沢関係略年譜
6月19日 シンガポールに南方事業所設置。 本史
7月10日 日本自動車配給(株)が設立され、自動車各社の販売機能を統合。 本史
11月9日 日産自動車販売(株)を吸収合併。 本史
12月29日 陸軍から航空機エンジンの生産命令を受ける。 本史
昭和18年(1943) - 【渋沢敬三】大東亜会議に来日のスバス・チャンドラ・ボース、約4週間綱町邸に逗留。 渋沢関係略年譜
5月10日 東京人造絹糸(株)吉原工場の土地・建物買収契約に調印。 本史
6月 航空機エンジンの試作を開始。 本史
12月 乗用車とダットサントラック、全面的に生産中止。 本史
昭和19年(1944) - 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』669号を発行、以後休刊する。岩波書店より『渋沢栄一伝記資料』第1巻が刊行される。【渋沢敬三】結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。総裁時代一度も東京を離れず。 渋沢関係略年譜
1月17日 軍需会社に指定。 本史
4月 戦時型ニッサントラックの生産開始。 本史
9月18日 本社を東京・日本橋に移し、日産重工業(株)と社名変更、工藤治人が取締役社長に、鮎川義介が再度取締役会長に就任。 本史
昭和20年(1945) - 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 渋沢関係略年譜
5月29日 横浜市大空襲により寮、社宅など付属施設全焼。 本史
6月4日 村山威士が取締役社長に就任。 本史
6月 機械設備の移転などによりニッサントラックの生産中止。 本史
9月30日 戦後の新発足にあたり、全従業員を解雇。 本史
10月1日 解雇従業員のうち、3分の1を再雇用して生産再開。//山本惣治が取締役社長に就任。 本史
11月15日 大型車ニッサン車戦後第1号車オフライン。 本史
12月8日 連合軍総司令部覚書により財閥傘下企業として制限会社に指定(25年8月指定解除)。 本史
12月15日 日産自動車販売(株)設立。 本史
昭和21年(1946) - 【竜門社】財団法人竜門社、財団法人渋沢青淵翁記念会が合同して渋沢青淵記念財団竜門社となる。【渋沢敬三】公職を追放さる。本邸は大蔵省に官邸として貸与、のち財産税にて敷地とともに物納。 渋沢関係略年譜
1月14日 本社を東京・日本橋から横浜市へ移す。 本史
2月19日 天皇陛下、本社工場をご視察。 本史
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