日本飛行機(株)『日飛50年の歩み : 日飛ニュース特集号 : 創立50周年記念』(1984.10)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
昭和9年(1934) - 【渋沢敬三】日本民族学会理事就任。 渋沢関係略年譜
10月11日 株式会社日本飛行機製作所創立総会を開催し、当日付を以って会社は設立された。尚、この創立総会で社名が『日本飛行機株式会社』に修正された。創立当時の、会社の概要は次の通り。I 事業目的/1.飛行機・発動機の設計、製作並びに販売。2. 前号に関する 一切の業務並びに投資。II 本店所在地/東京市麹町区丸の内1-6-1 III 資本金/200万円IV 初代役員(取締役)加藤亮一、古仁所豊、西野恵之助、荻野元太郎、浅川真砂、福島繁太郎、加賀孝徳(監査役)望月軍四郎、長谷川平五郎、中村久左エ門、後藤啓一 当社
- 室戸台風の余波で暴風 一般
- 丹那トンネル開通 一般
昭和10年(1935) - 【渋沢敬三】日本女子大学評議員就任。 渋沢関係略年譜
4月 富岡工場(現杉田製作所)建設に着工し、第一期工事は同年八月にほぼ完工した。 当社
- 当時の川崎造船所航空機部(後の川崎航空機工業)を退社され、技術員を卒いて創設に参画し、技術製造面を担当した竹崎友吉氏が取締役に就任。 当社
- 平均寿命 男44.8才 女46.5才 一般
昭和11年(1936) - 【竜門社】第二次青淵先生伝記資料編纂事業を開始する。 渋沢関係略年譜
2月 当時、世界的に注意を喚起しつつあった仏人アンリ・ミニエ氏創始の超軽飛行機「プー・ド・シェール」を購入し、東京飛行場で公開飛行。この機は、「雲雀一型」と改称し、当社で昭和12年迄計12機を生産した。 当社
11月 臨時株主総会を開催し、加藤亮一氏辞任の後を受けて、海軍中将堀悌吉氏が取締役社長に就任。註、堀社長は、山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友であり、後、山本長官はしばしば当社を来訪された。「蚊竜躍四瞑」の書も、この様なことから残されている。 当社
昭和12年(1937) - 【竜門社】財団法人渋沢青淵翁記念会が、小畑久五郎著“An Interpretation of the Life of Viscount Shibusawa”を刊行する。 渋沢関係略年譜
5月 自社製の海軍制式飛行機の試験飛行を実施し、良好な成績をあげる。 当社
7月 正式に待望の海軍購買名簿登録がなされた。同時に川西航空機等の先進各社と同列に、海軍当局より新型機試作の命を受ける。註、後、試作されたのが十二試初歩水上練習機である。 当社
11月 資本金を500万円に増資。(増加資本金300万円)この当時の従業員の増加著しく、11月1日現在の在籍者978人が、翌年4月には1,548人と約60%増加している。尚、この頃川西航空機(後の新明和工業)より弓削、山本両氏をはじめ多数の技術者が当社に転籍し、第一線の飛行機製作を手掛けることとなった。 当社
- 日華事変(蘆溝橋事件) 一般
- 文化勲賞制定 一般
- 千人針千人力盛ん 一般
昭和13年(1938) - 【渋沢敬三】国民貯蓄奨励委員会委員。 渋沢関係略年譜
12月 航空機製造事業法により「飛行機組立事業」「機体の製造事業」について、事業認可を受ける。 当社
- 国家総動員法成立 一般
- 教育の軍国主義化すすむ 一般
昭和14年(1939) - 【竜門社】財団法人渋沢青淵翁記念会と共催で「青淵先生生誕百年記念祭」を挙行する。日本実業史博物館建設地鎮祭を挙行する。 渋沢関係略年譜
10月 創立5周年記念式典を挙行。 当社
- ノモンハン事件 一般
- 価格統制令 一般
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