※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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嘉永元年(1848) | - | 【渋沢栄一】このころ実名を美雄とする。後に伯父渋沢誠室の命名で栄一と改める。〔13歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月13日 | 創業者真崎仁六、佐賀県佐賀郡巨勢村高尾に生まれる。 | 事項 | |
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 玉川上水の吐水を利用、水車設置。真崎鉛筆発祥時の工場に利用さる。 | 社会情勢 | |
- | ウィーン万国博覧会開催―藤山種広、鉛筆製造技術の伝習を受け帰朝したと伝えられる。 | 社会情勢 | |
明治9年(1876) | - | 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。東京養育院院長。〔36歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 真崎仁六、起立工商会社の社用を帯び、フィラデルフィア万国博覧会へ。 | 事項 | |
明治10年(1877) | - | 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 第1回内国勧業博覧会開催。(於上野公園) | 社会情勢 | |
- | わが国にはじめて鉛筆輸入される。 | 社会情勢 | |
明治11年(1878) | - | 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 真崎仁六、起立工商会社の金属製品出品のためパリ万国博覧会へ―陳列された鉛筆の実用性に着目、帰国後鉛筆研究に着手。 | 事項 | |
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問 〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 内国勧業博覧会に、井口直樹鉛筆を製造出品したといわれる。 | 社会情勢 | |
明治20年(1887) | - | 【渋沢栄一】東京製綱会社発起委員(後に取締役会長)。東京人造肥料会社創立委員(後に取締役会長)。京都織物会社創立、相談役。日本煉瓦製造会社創立・発起人(後に取締役会長)。帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。北海道製麻会社・相談役。〔47歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 真崎仁六、起立工商会社を辞し「真崎鉛筆製造所」を東京市四谷区内藤新宿1番地に設立。 | 事項 | |
- | 東京に初めて電灯がつく。 | 社会情勢 | |
明治32年(1899) | - | 【渋沢栄一】衆議院議員選挙法改正規制同盟会会長。福田会名誉顧問。大蔵省より北海道拓殖銀行設立委員に任命。京仁鉄道合資会社設立、取締役社長。銀行倶楽部委員 〔59歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月1日 | 特許法・意匠法・商標法公布。 | 社会情勢 | |
- | 真崎鉛筆製造所の下請工場、当時すでに都内に2、3カ所あり。 | 事項 | |
明治34年(1901) | - | 【渋沢栄一】大阪瓦斯会社監査役。日本女子大学校開校・会計監督(後に校長)。東京・飛鳥山邸を本邸とする。京釜鉄道株式会社取締役、後に取締役会長。茨城採炭株式会社創立、相談役。〔61歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 逓信省の販路開拓に成功―局用鉛筆1号・2号・3号を納入する。 | 事項 | |
- | ウォルト・ディズニー生まれる。 | 社会情勢 | |
明治36年(1903) | - | 【渋沢栄一】東宮御慶事奉祝会副会長・会計監督。インフルエンザ罹患、喘息を併発。京釜鉄道株式会社理事。〔63歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月27日 | 真崎仁六、逓信省に納入した3種の鉛筆を記念して「三菱」ブランド登録。(登録番号18865) | 事項 | |
4月1日 | ライト兄弟飛行機発明。 | 社会情勢 | |
8月22日 | 東京市内電車運転開始。 | 社会情勢 | |
明治37年(1904) | - | 【渋沢栄一】風邪をこじらせ長期に静養。韓国興業株式会社設立、監督。〔64歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月10日 | 日露戦争勃発。 | 社会情勢 | |
- | 輸入雑貨の大問屋・市川商店(日本橋室町)と販売提携。 | 事項 | |
- | 三井呉服店、百貨店「三越」となる。 | 社会情勢 |