※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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大正8年(1919) | - | 【渋沢栄一】アメリカ合衆国政府より日米船鉄交換争議の仲裁人を委嘱される。財団法人協調会創立・副会長。〔79歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 前年来財界空前の盛況、物価暴騰、事業濫興す | ||
大正9年(1920) | - | 【渋沢栄一】社団法人国際聯盟協会創立・会長。日華実業協会創立、会長。子爵を授けられる。〔80歳〕【竜門社】青淵先生八十寿及び子爵へ陞爵の祝賀会を開催し、記念として青淵文庫を青淵先生に贈呈する。 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 財団法人帝塚山学院理事長に推薦さる(二代) | ||
5月 | 衆議院議員当選(鳥取市第一区)(二代) | ||
- | 別府土地株式会社を創立、社長となる | ||
大正10年(1921) | - | 【渋沢栄一】ワシントン軍縮会議実況視察のため渡米。ハーディング大統領と会見。〔81歳〕【渋沢敬三】東京帝大経済学部卒業。横浜正金銀行へ入行。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 戦年景気の大反動を招き財界の様相一変す | ||
- | 鉄商組会長に推薦さる(二代) | ||
- | 大阪市会議員再選(二代) | ||
- | 従来帝国商事経由で行われた小倉製鋼株式会社との取引が同社直接となる | ||
大正12年(1923) | - | 【渋沢栄一】日本無線電信株式会社創立委員。大震災善後会創立・副会長、帝都復興審議会委員。〔83歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 関東に大震災あり、東京市内四十二万戸罹災、鉄鋼は復興用材の需要にて一時急騰 | ||
大正13年(1924) | - | 【渋沢栄一】財団法人日仏会館創立・理事長。東京女学館・館長。〔84歳〕【竜門社】財団法人竜門社となる。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 国内一般に不景気漲る | ||
大正14年(1925) | - | 【渋沢栄一】製鉄鋼調査会委員。史籍協会評議員。浅草寺臨時営繕局顧問。日本無線電信株式会社設立委員長。飛鳥山邸(曖依村荘)に青淵文庫竣工、傘寿と子爵昇格の祝いを兼ねて竜門社より贈られる。〔85歳〕【渋沢敬三】横浜正金銀行退職。 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 東京品川区大井南浜川町にある、プレス工場を継承して、合資会社プレス作業所を設立、毛利繁三代表社員となる | ||
大正15年(1926) | - | 【渋沢栄一】太平洋問題調査会創立・評議員会会長。社団法人日本放送協会創立・顧問。〔86歳〕【渋沢敬三】澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行取締役に就任。東京貯蓄銀行取締役に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 二代藤助逝去(享年五十三、法名応信院釈実言) | ||
- | 生前の功労に依り従六位に叙せらる | ||
- | 長男丑之助三代目相続並に藤助襲名 | ||
- | 株式会社山本藤助商店、山本汽船株式会社、別府土地株式会社各社長に、合資会社プレス作業所無限責任社員に、大阪製鉄株式会社取締役に就任す | ||
昭和2年(1927) | - | 【渋沢栄一】日本国際児童親善会創立・会長。日米親善人形歓迎会を主催。航空輸送会社設立準備調査委員会会長。〔87歳〕【渋沢敬三】東洋生命取締役に就任。理化学興業監査役に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 経済界大混乱、破綻者続出、銀行取付騒、政府モラトリアム発令す | ||
- | 大阪鉄商の巨頭岸本、岡谷、津田及当社一丸となって大阪鋼材商会設立 | ||
- | 帝塚山学院理事長となる(三代) | ||
昭和3年(1928) | - | 【渋沢栄一】日本女子高等商業学校建設後援会発起人。日本航空輸送株式会社創立・創立委員長。〔88歳〕【竜門社】青淵先生米寿祝賀会を開催し、斯文会編訳『国訳論語』等を記念品として青淵先生に贈呈する。 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 長司明二プレス作業所に入る | ||
6月 | 勅定の紺綬褒章下賜さる |