※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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寛延2年(1749) | 11月 | 当主友昌、伊予下向 | 別子 |
寛延3年(1750) | - | 銅座(第2次)廃止 | 住友・一般 |
宝暦2年(1752) | 2月11日 | 美坂杢兵衛没、正月付で杢兵衛の立川銅山請負辞退、泉屋理兵衛請負出願 | 別子 |
8月19日 | 同上許可 | 別子 | |
宝暦5年(1755) | - | 別子・立川御用銅定高72万斤となる、普請料銀300貫目拝借、以後増銅の褒美銀15貫目を支給される | 別子 |
宝暦12年(1762) | 2月 | 泉屋吉左衛門による別子・立川両銅山一手稼行出願 | 別子 |
4月 | [閏4月]同上許可 | 別子 | |
明和元年(1764) | 12月 | 銅山付御林山として津根山村の鬼ケ城・葛川山を下げ渡される | 別子 |
- | 秋田銅御用銅高100万斤となる | 住友・一般 | |
明和2年(1765) | - | 褒美銀10年分150貫目の前貸しをうける | 別子 |
- | オランダ持渡銅を80万斤、中国船来航数を年13艘、持渡銅を130万斤とする | 住友・一般 | |
明和3年(1766) | 6月 | 銅座(第3次)設立、銅座による銅の独占的集荷・販売体制成立 | 住友・一般 |
- | 南部銅御用銅高5年間10万斤減 | 住友・一般 | |
明和4年(1767) | 7月1日 | 田沼意次側用人となる | 住友・一般 |
- | 御用銅回送用の御用船を指定 | 別子 | |
明和5年(1768) | 5月 | 風水害発生、被害甚大 | 別子 |
12月 | 手当銀75貫目増額、翌年から計90貫目支給 | 別子 | |
- | オランダ船来航数を年2艘、持渡銅を90万斤とする | 住友・一般 | |
明和6年(1769) | 2月 | 幕府支配勘定水谷祖右衛門ら見分(3月まで) | 別子 |
安永元年(1772) | 1月15日 | 田沼意次老中となる | 住友・一般 |