※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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慶応元年(1865) | - | 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 英人エドワード・ハズレット・ハンター(Edward Hazlett Hunter)横浜に上陸する | ||
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
12月7日 | △兵庫開港・大阪開市される[以下、△は一般事項] | [一般事項] | |
12月 | ハンター神戸に移住する | ||
明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | △英人エドワード・チャールズ・キルビー、神戸および大阪外国人居留地にキルビー商会を開き、かたわら神戸小野浜に造船工場を開設する | [一般事項] | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | ハンター、神戸外国人居留地二十九番館にハンター商会を開く | ||
明治12年(1879) | - | 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | ハンター、大阪安治川六軒家新田松ケ鼻に地を定め、造船鉄工所の創業準備を開始する | ||
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
11月 | 木船六甲丸竣工する | ||
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月1日 | ハンター、嗣子平野竜太郎(のち範多竜太郎)の名義をもって大阪鉄工所(Osaka Iron Works)を創立し、造船鉄工業を営む | ||
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 当所新造第一番船初丸(木船)竣工する | ||
明治16年(1883) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社相談役、同社工場落成。 東京電燈会社創立(後に委員)。伊藤兼子(かね子)と再婚。〔43歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 鎮西丸に装備する表面凝縮連成汽機(公称五〇馬力)と汽缶とを製作する | ||
5月 | 木造乾船渠を築造する(大阪における最初の乾船渠) | ||
- | 鉄船三邦丸を修理する | ||
- | 甲賀卯吉を所員に採用する | ||
- | △キルビー逝去する | [一般事項] | |
明治17年(1884) | - | 【渋沢栄一】東京商業学校(前、商法講習所)校務商議委員。磐城炭礦社設立・会長。日本鉄道会社理事委員(後に日本鉄道株式会社取締役)。〔44歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月1日 | ハンター、経営困難に陥り、当所の事業を門田三郎兵衛に譲渡する | ||
5月 | △大阪商船会社設立される | [一般事項] | |
12月 | 事業不振のため当所ついに休業する | ||
明治18年(1885) | - | 【渋沢栄一】ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッド設立(後に理事)。日本郵船会社創立(後に日本郵船株式会社取締役)。東京瓦斯会社創立・委員長(後に東京瓦斯株式会社取締役会長)。〔45歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 当初の経営ハンターに復帰する | ||
- | はじめて大阪商船から淀川丸(木船)の建造注文を受ける(十九年一月竣工)、のち同社と密接な関係結ばれる | ||
- | 外人技術者退職、佐山芳太郎、家入安ら邦人技術者を採用する |