婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
明治33年(1900) - 【渋沢栄一】京釜鉄道株式会社創立委員長。日本興業銀行設立委員(後に監査役)。男爵を授けられる。黒須銀行相談役。〔60歳〕【竜門社】青淵先生の還暦祝賀として『青淵先生六十年史 一名近世実業発達史』を刊行、青淵先生に贈呈する。 渋沢関係略年譜
6月 △成瀬仁蔵氏主唱の女子大学、位置は大阪と内定し居りしを東京に変更、正式に確定
6月 △京都府立高女校長河原一郎氏、福沢論吉氏著「新女大学」を五月校内売店にて発売禁止せし為、時事新報社員詰問に出かけたるが結局要領を得ずに終る
6月 △台湾台北管下各公立学校にて女生徒の纏足を調査せしに四百十六名の女生徒中三百六十名あり、天然足は百十六名なりしと
6月 △跡見女学校、同窓会機関誌「汲泉」創刊
6月 △婦女新聞紙上の葉書投書欄を言文一致体に限る事とす。新聞雑誌に言文体の文章を採用せし最初ならん
6月 △婦女新聞、文部省調査の各府県師範女子部(十六校)高女(十三校)の寄宿舎取締法類別表を、数個月に渉つて連載し始む。それによれば、//結髪を銀杏返しに一定せるもの千葉、宮城、秋田、奈良、和歌山、鹿児島の各師範女子部、山口、愛媛、久留米、小倉、熊本の各高女計十一校。束髪に一定せるもの高師、新潟、山梨、岩手、京都、徳島、長崎、佐賀の各師範女子部、京都高女の九校、此他は隨意として規定せず。//服装は授茉中又は校内にては必ず着袴せしむるもの高師、千葉、宮城、岩手、京都、富山、和歌山、徳島、佐賀、鹿児島の各師女、小倉、久留米の二高女、体操時間中のみ襷又は筒袖を用ひしむるもの新潟、宮城、福島、秋田の各師女、袴に靴を穿かせるもの和歌山、其他は通常の和服なり
6月 △報知新聞「婦人と家庭」と題する欄を新設
6月 △日英米仏等の聯合軍、清国天津を陥る
7月 △日本女子大学校創立委員会に於て校長は成瀬仁蔵氏に決定、三井家の寄附に依て東京小石川区高田豊川町に建築を始む
7月 △山岡鉄舟未亡人英子刀自永眠
7月 △華族女学校教授津田梅子女史退職。学監下田歌子女史と意見の一致せざる為なり
7月 △文部省留学生安井哲子女史英国より帰朝
7月 △逓信省初めて女子雇員探用規定を発表、男女室を別にすること、当分は公衆に接する事務には当らしめざる事等の注意あり
7月 △北清事変の為、赤十字社救護班を組織して病院船博愛丸弘済丸にて看護婦十数名出発
7月 △山沢俊夫氏経営の大日本女学会は女学の通信教授をなせるが会員一万を突破
8月 △大阪府立第一高女校を清水谷東之町に建築起工
8月 △陸奥宗光伯未亡人亮子刀自永眠
8月 △小学校令改正、従来の読書、作文、習字の三科を合せて国語科とす、漢字を千二百字内外に制限する等々。之に附帯して字音かなづかひを発音通りに改む、さう、さふ、そう等をすべて「そー」と記す類
8月 △二六新報社娼妓の自由廃業に援助、各遊廓に恐慌を来す
8月 △我軍北京に入る
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