※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治42年(1909) | - | 【渋沢栄一】古稀に際し多くの企業・団体の役員を辞任。渡米実業団を組織し団長として渡米。タフト大統領と会見。〔69歳〕【竜門社】組織を変更し、社則を改正。青淵先生の道徳経済合一説を広め実践する団体に性格を変える。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 更生の努力を続けし甲斐ありて//第三十三期(四十二年上半期)純益二五五、三七三円四一//第三十四期(四十二年下半期)純益一八四、四二一円○○//の利益合計を以て一年前の欠損繰越金四〇〇、四一五円○二を決済し差引三九、三七九円三九の益を次期に繰越す | ||
明治43年(1910) | - | 【渋沢栄一】政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。社団法人東京銀行集会所会長。〔70歳〕【竜門社】青淵先生の七十寿祝賀会を開催する。 | 渋沢関係略年譜 |
1月14日 | 取締役野田吉兵衛氏逝去 | ||
7月25日 | 社長田中市兵衛氏逝去 | ||
9月14日 | 志方勢七氏社長に就任 | ||
10月1日 | 喜多又蔵、山田穆両氏取締役に就任 | ||
- | 米国テキサス州フオートウオース市に出張所開設 | ||
明治44年(1911) | - | 【渋沢栄一】日露協会評議員。維新史料編纂会委員。財団法人済生会設立、顧問・評議員。勲一等に叙され瑞宝章を授与される。〔71歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 喜多常務、会社方針として実力主義を鼓吹す | ||
5月9日 | 喜多常務、長江より北清、満洲及朝鮮視察の為め出発//六月十七日帰阪 | ||
9月 | 其の結果、天津、青島に出張所開設 | ||
10月10日 | 支那革命乱起り我社漢口支店及工場は戦禍の巷と化す | ||
- | 所謂福紡株事件起る | ||
- | 北支への進出 | ||
明治45年(1912) | - | 【渋沢栄一】日本鋼管株式会社発起人。日仏銀行相談役。帰一協会創立・幹事。ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。〔72歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月1日 | 香港出張所を開設 | ||
- | (上半期)支那革命乱に因る漢口及上海支店の損害巨額に達せしも本年上半期決算に於て全部銷却し尚三〇三、三四二円八九の利益を挙ぐ | ||
大正2年(1913) | - | 【渋沢栄一】伯剌西爾拓植株式会社創立準備委員。日本結核予防協会創立・副会頭(後に会頭)。中国興業株式会社(後の中日実業)創立、相談役。日本実業協会創立・会長。帝国飛行協会成立、評議員。〔73歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月4日 | 販売機関として大連出張所開設//次いで営口、鉄嶺、長春、ハルビンに出張員を派す | ||
7月21日 | 取締役末吉勘四郎氏辞任、馬場義興氏取締役に就任 | ||
7月23日 | 喜多常務、米、印、埃及、欧洲視察の旅に上る | ||
9月23日 | 大正三年六月二十七日同氏一ケ年の旅行より帰阪 | ||
10月10日 | 甲谷陀出張所開設 | ||
- | 綿布類取扱を開始す |