※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 山口県士族笠井順八、同志荒川佐兵衛と共に上京、工部省深川工作所大技長宇都宮三郎に就てセメント製造に関する技術上の意見を聴き実地指導を受く。 | ||
2月 | 帰郷後、直に本会社創立準備に着手し、同族三十七名の賛同を得。 | ||
5月 | 事業資金として金六万千六百円を要するに就て、発起人以下の金禄公債を担保に士族就産金借入を政府に出願。 | ||
8月5日 | 五日附を以て内務卿松方正義より請求金額の内二万五千円貸下げ許可の指令発せらる。 | ||
9月 | 荒川佐兵衛を再び東京深川工作所に派遣し、セメント製造工場建設設計等に就て研究せしめ、同時に波多野和忠、駒井熊太、大島弥三郎・松本禄郎・桂喜久の五名を選抜東上せしめ、深川工作所に於てセメント製造現業を実習せしめた。五名は爾来約一ケ年、即ち明治十四年七月まで同地に滞在し、製造方法に就て研究す。 | ||
10月 | 政府の貸下金交付さる。//◎此月愈工場位置を山ロ県厚狭郡西須恵村大字小野田新開作三十一の割、即ち現在の本社所在地に確定し、工事に著手すると共に、工場敷地の東北小野田山に煉瓦製造場を設置し直に製造を開始す。 | ||
11月 | 松方大蔵卿不換紙幣の整理に著手す。 | ||
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 株主の総集会を開いて、会社規則を制定し、社名を『セメント製造会社』とすること等、内外の準備漸く整ひ、此月二十四日発起人総代笠井順八より、山口県令原保太郎に向つて本会社設立認可の申請書を提出。 | ||
4月 | 農商務省開設。 | ||
5月3日 | 三日附原県令より会社設立認可の指令あり、此日を以て我社創立紀念日とす。本邦に於ける民間セメント事業会社の濫觴である。//◎いよいよ会社成立し、工場の外廓が整つたので、此月笠井順八は工場建設並に製造用諸機械等購入の為め上京、深川工作所其他と打合せ、兵庫工作分局及び大阪砲兵工廠等へそれぞれ汽缶汽機其他雑機械類を註文し、契約を結んだ。 | ||
10月 | 国会開設の詔下る。◎紙幣整理を原因とする不景気始まる(此不景気は十九年兌換開始頃まで続いた) | ||
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 兵庫工作分局に註文したモルタール練機到著据付を終る。 | ||
9月 | 大阪砲兵工廠へ註文した二十馬力汽缶汽機共他の附属機械類は、此年三月までに送致する約定であつたが、偶々朝鮮事件突発の為め遅延に遅延を重ね、漸く九月五日到著、大半据付を終つた。 | ||
10月 | 日本銀行創立。 | ||
12月 | 撹擾機、フレットミル其他の機械類も前同様の理由で、六月到著の予定が、漸く十二月二十五日に至つて着荷したが、附属品等に不具合のものあり、年内全部の据付を了らずして越年した。事業開始の遅延は機械類の不着が主たるものであつたが、又工場設備に要する煉瓦八十万個の製造に意外の日子を要したことも其原因の一をなしてゐる。 | ||
明治16年(1883) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社相談役、同社工場落成。 東京電燈会社創立(後に委員)。伊藤兼子(かね子)と再婚。〔43歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 撹擾機、フレットミル共他の機械一切の据付を終り、焼窯四基落成。 | ||
4月 | 有帆川の泥土、豊前恒見産の石灰石を原料としてセメント製造に著手す。職工不熟練の為めセメントとなるまで少なからざる日子を要した。 | ||
5月14日 | 参議兼工部卿佐々木高行、工場の内外を視察す。 | ||
8月29日 | 工部省大技長宇都宮三郎来り、九月七日まで滞在、セメント製造に就て実地指導す。 | ||
9月 | 製品出来、各方面に販売開始通知を発す。◎二十九日地元の建築講負業中村某が一樽購入したのが、我社製品販売の第一に記録されてゐる。其後筑前方面よりぼつぼつ註文あり。//◎中国諸県御巡察の高辻侍従は、九日下関より小蒸汽船にて小野田著、本社工場巡覧の後、厚狭郡役所、船木警察署、徳基小学校等御巡視。 |