※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治12年(1879) | - | 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 重三郎4歳 | 安藤家関係事項 | |
- | この年、美術団体「竜池会」が創立される。 | 社会一般事項 | |
- | シドニー万国博覧会開催される。〔出典:山本光雄著『日本博覧会史』〕 | 社会一般事項 | |
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月 | 名古屋七宝会社が東京支店を開設し、牛込神楽町に東京工場を新設する。 | 社会一般事項 | |
9月 | 名古屋七宝会社が貿易商会と契約して、海外博覧会・海外輸出にとりくむ。 | 社会一般事項 | |
10月1日 | メルボルン万国博覧会において、名古屋七宝会社出品作品が三等褒状を受ける。 | 社会一般事項 | |
- | 重三郎5歳 | 安藤家関係事項 | |
- | この年、これまで煙管商を営んでいた村田屋が、名古屋玉屋町一一〇番戸において、七宝焼の販売も兼業するようになる。安藤七宝店の創業。(創業記念日は9月15日) | 安藤家関係事項 | |
- | この年、名古屋七宝会社が工場を横三蔵町に移転する。〔出典:名古屋市発行『名古屋市史』〕 | 社会一般事項 | |
- | 涛川惣助が無線七宝の技法を確立する。 | 社会一般事項 | |
- | 名古屋七宝会社の売上高は、国内向け五九七円・外国向け三〇、四三六円。〔出典:安藤家所蔵文書〕 | 社会一般事項 | |
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月1日 | 第二回内国勧業博覧会開催。(~6・30)この博覧会において名古屋七宝会社出品作品が名誉賞牌を受ける。 | 社会一般事項 | |
- | 重三郎6歳 | 安藤家関係事項 | |
- | この年、川出柴太郎が七宝製造所を開始する。〔出典:名古屋市発行『名古屋市史』〕 | 社会一般事項 | |
- | ワグネルが東京大学理学部の製造化学担当教師となる。〔出典:博覧会出版協会発行『ワグネル伝』(植田豊橘編)〕 | 社会一般事項 | |
- | この頃、太田甚之栄が緋透明七宝を創作する。〔出典:愛知県実業教育振興会発行『愛知県の特殊産業の由来』上巻〕 | 社会一般事項 | |
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月20日 | 上野博物館(後の東京帝室博物館)が落成する。 | 社会一般事項 | |
- | 重三郎7歳 | 安藤家関係事項 | |
- | この年、安蔵重三郎が政府御雇教師のフランス人アリヴェーの説〈日本は輸出貿易を拡張すべし〉に影響を受ける。〔出典:安藤家所蔵文書〕 | 安藤家関係事項 | |
- | この頃、ワグネルの指導により、加藤友太郎が洋式陶窯を築く。 | 社会一般事項 |