※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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大正5年(1916) | - | 【渋沢栄一】海外植民学校顧問。日米関係委員会創立・常務委員。第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。理化学研究所創立委員長。喜寿記念として第一銀行が玉川清和園に記念館誠之堂建設。渋沢栄一述『論語と算盤』(東亜堂書房)刊行。〔76歳〕【竜門社】青淵先生の喜寿祝賀会開催し、記念品として林泰輔編『論語年譜』を青淵先生に贈呈する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 社員福利厚生のため基金を拠出し「養安会」設立 | 福助のあゆみ | |
- | 全国一の大気球広告を行う | 福助のあゆみ | |
- | 本格的新聞広告を採用 | 福助のあゆみ | |
- | 工場法施行 | 社会の動き | |
大正6年(1917) | - | 【渋沢栄一】日米協会創立・名誉副会長。飛鳥山邸(曖依村荘)に晩香廬落成、喜寿の祝いに合資会社清水組より贈られる。〔77歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 皇太子殿下ご来堺 製品を献上 | 福助のあゆみ | |
- | 「コハゼ受糸通し改良機」採用(淀常式) | 福助のあゆみ | |
- | 足袋の「文廻し(サイズ別価格制)」廃止 全国均一価格実施 | 福助のあゆみ | |
- | 福助足袋東京営業所設置(東京市日本橋区田所町) | 福助のあゆみ | |
- | 満州方面へ進出(現中国東北部) | 福助のあゆみ | |
- | ホーロー製軒吊り丸看板、全国販売店に掲げる | 福助のあゆみ | |
- | 浅草オペラはじまる | 社会の動き | |
- | 金・銀の輸出禁止 | 社会の動き | |
- | 坂田三吉八段、関根金次郎八段に勝つ | 社会の動き | |
大正7年(1918) | - | 【渋沢栄一】渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。〔78歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 「名実共に日本一」を宣伝標語とする | 福助のあゆみ | |
- | 東京市電三〇〇台に車内広告を行う | 福助のあゆみ | |
- | 各地に米騒動おこる | 社会の動き | |
- | 第一次世界大戦終わる | 社会の動き | |
大正8年(1919) | - | 【渋沢栄一】アメリカ合衆国政府より日米船鉄交換争議の仲裁人を委嘱される。財団法人協調会創立・副会長。〔79歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 現在地に工場建設開始 | 福助のあゆみ | |
- | 私立女子実業補修学校開校(校長 辻本豊三郎) | 福助のあゆみ | |
- | 福助足袋社員養成所開設 | 福助のあゆみ |