(社)東京銀行協会東京手形交換所『東京手形交換所100年の歩み』(1987.12)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
明治41年(1908) - 【渋沢栄一】日韓瓦斯株式会社創立、取締役会長。帝国商業銀行相談役。東洋拓殖株式会社設立委員。木曾興業株式会社創立、相談役。アメリカ太平洋沿岸商業会議所代表委員一行を飛鳥山邸(曖依村荘)に招待。〔68歳〕 渋沢関係略年譜
2月 政府の税制整理案中所得税法改正案につき決議文を両院議員等へ提出//本件については、明治43年2月に再決議し、新聞発表も行った。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
明治42年(1909) - 【渋沢栄一】古稀に際し多くの企業・団体の役員を辞任。渡米実業団を組織し団長として渡米。タフト大統領と会見。〔69歳〕【竜門社】組織を変更し、社則を改正。青淵先生の道徳経済合一説を広め実践する団体に性格を変える。 渋沢関係略年譜
6月 手形法の国際統一に関し、大蔵省に答申//手形法および小切手法の国際統一問題に関しては、昭和5年に「為替手形および約束手形に関し統一法を制定する条約」が、また翌年には「小切手に関し統一法を制定する条約」が成立し、日本がこれを批准のうえ昭和8年に「小切手法」が公布されるまでの間、大蔵省あるいは司法省に対し何回か意見を提出した。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
明治44年(1911) - 【渋沢栄一】日露協会評議員。維新史料編纂会委員。財団法人済生会設立、顧問・評議員。勲一等に叙され瑞宝章を授与される。〔71歳〕 渋沢関係略年譜
9月 交換所規則を改正(同年10月実施)//イ 交換時間を午前11時から11時30分までとし、交換尻払込時限を午後1時とする。//ロ 不渡届を持出・持帰双方銀行から届出ることとする(ただし、持出・持帰両銀行の立場の相違から円滑な届出が行われず、大正9年11月持出銀行届出制に戻した。)。//ハ 1か年内に2回不渡とした者は直ちに取引停止処分とする(翌日午後3時までの取消を認めない)。//ニ 停止処分解除請求等の審査に当る委員の名称を調査委員から審査委員と改め、規則にその職務等を規定した。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
12月 商法による司法大臣指定手形交換所となる 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正2年(1913) - 【渋沢栄一】伯剌西爾拓植株式会社創立準備委員。日本結核予防協会創立・副会頭(後に会頭)。中国興業株式会社(後の中日実業)創立、相談役。日本実業協会創立・会長。帝国飛行協会成立、評議員。〔73歳〕 渋沢関係略年譜
3月 所得税法および営業税法の改正案に対する決議書を貴族院議員等へ提出 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正3年(1914) - 【渋沢栄一】東北九州災害救済会創立、副総裁。合資会社国際通信社設立、相談役。日中経済界の提携のため中国訪問。財団法人国産奨励会設立準備委員総代、顧問。〔74歳〕 渋沢関係略年譜
7月 第一次世界大戦はじまる 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正5年(1916) - 【渋沢栄一】海外植民学校顧問。日米関係委員会創立・常務委員。第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。理化学研究所創立委員長。喜寿記念として第一銀行が玉川清和園に記念館誠之堂建設。渋沢栄一述『論語と算盤』(東亜堂書房)刊行。〔76歳〕【竜門社】青淵先生の喜寿祝賀会開催し、記念品として林泰輔編『論語年譜』を青淵先生に贈呈する。 渋沢関係略年譜
9月 東京銀行集会所、東京銀行倶楽部が麹町区永楽町(現・千代田区丸の内)に建物を新築し、移転 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
10月 小額通貨不足緩和のため補助貨幣増発の要望書を大蔵大臣、日本銀行総裁へ提出 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正9年(1920) - 【渋沢栄一】社団法人国際聯盟協会創立・会長。日華実業協会創立、会長。子爵を授けられる。〔80歳〕【竜門社】青淵先生八十寿及び子爵へ陞爵の祝賀会を開催し、記念として青淵文庫を青淵先生に贈呈する。 渋沢関係略年譜
1月 交換所組合銀行の営業時間を午前9時から午後3時までとすることを申合せ(同年2月実施) 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
2月 所得税法改正案に対する決議書を大蔵大臣、日本銀行総裁、両院議員に提出//同年6月、総理大臣、大蔵大臣へ再建議した。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
11月 交換所規則を改正//イ 不渡届を持出銀行からの届出制に戻した。//ロ 不渡届に対する支払銀行からの異議申立については審査委員会に付議することとした。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正10年(1921) - 【渋沢栄一】ワシントン軍縮会議実況視察のため渡米。ハーディング大統領と会見。〔81歳〕【渋沢敬三】東京帝大経済学部卒業。横浜正金銀行へ入行。 渋沢関係略年譜
7月 手数料徴収規定を決定(同年8月実施)//大正10年4月開催の手形交換所聯合会の申合せに従い、東京・大阪・神戸の各地交換所において、それぞれ手数料徴収規定を定めた。対象種目は、送金、当座口振込、代金取立、代理事務(株式募集取扱等)、保護預等であった。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正12年(1923) - 【渋沢栄一】日本無線電信株式会社創立委員。大震災善後会創立・副会長、帝都復興審議会委員。〔83歳〕 渋沢関係略年譜
1月 交換室移転(日本橋区本町(現・中央区日本橋本石町)、日本銀行建物内での移転) 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
9月 関東大震災 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
9月 関東大震災により交換室焼失、手形交換休止(9月2日~9月30日)//(1)9月1日の手形交換終了後に震災が発生し、組合銀行の大半の店舗が焼失して営業不能となった。交換室も焼失したので、9月2日から手形交換を休止した。9月2日には戒厳令が施行された。//(2)9月3日、交換所は、政府に対し支払猶予令の施行と、焼跡に残る銀行の金庫の警備のため軍隊の派遣を大蔵大臣に陳情した。//(3)9月7日、支払猶予令が公布され、大正12年9月1日から9月30日までに支払期日がくる金銭債務について30日間の支払猶予が行われることとなったので、手形交換も9月30日までは休止することとなった。//(4)交換所は、9月1日の交換持帰手形の不渡返還の取扱い、支払猶予期間中の付利の問題等を検討し、また一方、日本銀行へ手形再割引条件の緩和等を陳情した。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
10月 手形交換を銀行集会所建物(現・千代田区丸の内の銀行倶楽部)の地下室で再開//交換再開に先だち、9月29日に//(1)当面の「交換便法」を決定、不渡手形の翌日交換返還をみとめる等の措置をとった(便法は大正13年2月までにはすべて廃止された。)。//(2)銀行の営業時間を午前10時から午後2時までと決定した(大正12年11月には午前9時から午後3時までに戻した。)。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正13年(1924) - 【渋沢栄一】財団法人日仏会館創立・理事長。東京女学館・館長。〔84歳〕【竜門社】財団法人竜門社となる。 渋沢関係略年譜
5月 交換室移転(土地は当初日本銀行から借用、後に買収)//震災で焼失した交換室の跡地にバラック建築の仮交換所を建設。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
大正14年(1925) - 【渋沢栄一】製鉄鋼調査会委員。史籍協会評議員。浅草寺臨時営繕局顧問。日本無線電信株式会社設立委員長。飛鳥山邸(曖依村荘)に青淵文庫竣工、傘寿と子爵昇格の祝いを兼ねて竜門社より贈られる。〔85歳〕【渋沢敬三】横浜正金銀行退職。 渋沢関係略年譜
12月 「東京手形交換所」と改称 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
12月 交換所規則を改正し、預金利子協定加盟を組合銀行の資格要件とする。//(1)預金利子協定は、明治34年に大阪で始まり、明治35年には東京でも一部の銀行の間で、利率の協議が行われた。第一次世界大戦開始後、預金利子が高騰し、大蔵大臣の示唆もあって、大正7年12月、東京、大阪、名古屋の有志銀行の間で覚書を交わし、これにもとづいて、同月、東京預金利子協定規約が成立した。この協定には、交換所組合銀行43行のうち36行と代理交換参加銀行13行が参加した。その後、全組合銀行がこの協定に参加することとなったので、交換規則上、預金利子協定加盟を組合銀行としての資格の一つとした。なお、東京預金利子協定の運営上の事務は東京手形交換所が行った。//(2)交換時間を午前10時30分から11時10分までとする。 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
1926年 - 【渋沢栄一】太平洋問題調査会創立・評議員会会長。社団法人日本放送協会創立・顧問。〔86歳〕【渋沢敬三】澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行取締役に就任。東京貯蓄銀行取締役に就任。 渋沢関係略年譜
12月 社団法人に改組し「社団法人東京手形交換所」設立 独立組織時代(明治33年8月~昭和20年6月)
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