※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和15年(1940) | - | 【竜門社】第100回会員総会並に記念展観を開催する。 | 渋沢関係略年譜 |
7月 | 糸価維持策として政府の生糸大量買入が始まり、九月第三次帝国蚕糸株式会社の大量買入が始まった。○ | 間接関連事項 | |
8月15日 | 糸価低落に対し千三百五十円の線を維持するため政府は糸価維持応急対策の閣議決定を行った。○ | 間接関連事項 | |
8月 | 生糸滞貨の増加に伴い他会社の倉庫を借庫して保管した。 | ||
昭和16年(1941) | - | 【渋沢敬三】全国貯蓄銀行協会会長に就任。第一銀行副頭取に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
3月12日 | 蚕糸業統制法公布。蚕種、繭、生糸その他蚕糸頃の全般にわたり生産、需給、価格等を一元的に統制し時局下の蚕糸業の安定と発達を期するにあった。○ | 間接関連事項 | |
4月21日 | 糸価安定施設組合は蚕糸業統制法の施行により解散となった。○ | 間接関連事項 | |
5月7日 | 日本蚕糸統制株式会社が設立された。○ | 間接関連事項 | |
昭和18年(1943) | - | 【渋沢敬三】大東亜会議に来日のスバス・チャンドラ・ボース、約4週間綱町邸に逗留。 | 渋沢関係略年譜 |
10月12日 | 陸海軍に対し航空機献納の目的をもって献金することを決定した。 | ||
10月18日 | 国家総動員法に基く統制会社令公布。 | ||
昭和19年(1944) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』669号を発行、以後休刊する。岩波書店より『渋沢栄一伝記資料』第1巻が刊行される。【渋沢敬三】結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。総裁時代一度も東京を離れず。 | 渋沢関係略年譜 |
1月20日 | 倉庫業の統制確立に関する意見書が日本倉庫業会長から政府に提出された。○ | 間接関連事項 | |
3月30日 | 運輸通信大臣より倉庫統制会社設立の命令を受けた。 | ||
4月21日 | 日本倉庫統制株式会社設立につき現金出資及び営業の一部譲渡を決定した。 | ||
4月21日 | 取締役社長芳賀権四郎は退任し、専務取締役木村賛夫が社長に就任した。 | ||
5月1日 | 日本倉庫統制株式会社が開業し、六大港都市の倉庫業を一元統制した。従って当倉庫はすべて同社に借上げられた。 | ||
昭和20年(1945) | - | 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 | 渋沢関係略年譜 |
5月29日 | 横浜に大空襲あり全部焼野原となる。本庫に若干の被害はあったが焼失を免れた。山下町所在蚕糸副産物倉庫は焼失した。 | ||
8月15日 | 終戦。続いて日ならず連合軍は続々と横浜に進駐してきた。 | ||
8月23日 | 生糸絹物専用倉庫四陳とも進駐軍に接収された。 | ||
8月28日 | 帝蚕ビルディング進駐軍に接収され、接続更地約六百坪もモータープールとして接収された。 | ||
9月23日 | 倉庫事務所も進駐軍に接収されたために執務の本拠を夫い仮事務所を一時当時の第十五銀行の二階の一室に移したが、更に中区花咲町の本町国民学校の一部に移した。 | ||
9月28日 | 山下町の蚕糸副産物倉庫の焼跡も進駐軍に接収された。 | ||
10月8日 | 各省次官会議において倉庫業の再編成要項を決定し発表された。 |