※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和4年(1929) | - | 【渋沢栄一】アメリカン・ソサエティ・オブ・メカニカル・エンジニア名誉会員。中央盲人福祉協会創立・会長。〔89歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 聖上陛下 大阪へ行幸の際喜多社長御陪食の光栄に浴し東阿棉花栽培に関し御下問に奉答す//旭絹織の経営を譲渡す | ||
- | (下半期)本年下半期(自昭和四年四月一日至同年九月三十日)配当は二分減の八分 | ||
昭和5年(1930) | - | 【渋沢栄一】明治神宮外苑聖徳記念絵画館に壁画献納。財団法人楽翁公遺徳顕彰会会長。〔90歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月5日 | 東京、名古屋、天津、香港、甲谷陀、スラバヤ、シドニー支店を出張所とす | ||
6月 | 本年上半期(自昭和四年十月一日至昭和五年三月三十一日)大欠損(三八、六九九、〇九二円八〇)を発表し大減資(六割減資)を断行す | ||
12月26日 | 滝川儀作氏、野田吉兵衛氏監査役に就任 | ||
- | 社内整理役員及社員の減員、一部支店の廃止を行ふ | ||
昭和7年(1932) | - | 【竜門社】第一次青淵先生伝記資料編纂事業を開始する。【渋沢敬三】第一銀行常務取締役就任。 | 渋沢関係略年譜 |
1月30日 | 喜多社長逝去 | ||
2月5日 | 喜多社長社葬 | ||
2月 | 喜多社長特旨を以て位一級を進めらる | ||
3月16日 | 南郷三郎氏社長に就任 | ||
3月16日 | 武内和吉氏監査役に就任 | ||
4月30日 | 船場支店を廃止し現在の本社内に移す | ||
12月24日 | 取締役中村利三郎氏辞任 | ||
- | (自一月至二月)上海事変勃発、上海支店社員の家族全部引揚ぐ | ||
- | バタビヤ出張所閉鎖 | ||
昭和8年(1933) | - | 【竜門社】青淵先生の遺言により渋沢家から曖依村荘を受贈する。財団法人渋沢青淵翁記念会が東京・常盤橋公園に青淵先生の銅像を建てる。 | 渋沢関係略年譜 |
- | (下半期)六月中旬日本綿業団体は印棉不買決議を敢行、棉花商は印棉新規買付中止、我社印度内地繰棉工場運転中止等、本年下半期は我社としても多大の犠牲を払ひ非常なる波瀾ありしも大過なきを得たり | ||
昭和9年(1934) | - | 【渋沢敬三】日本民族学会理事就任。 | 渋沢関係略年譜 |
6月20日 | 第二回減資、即二千万円を一千二百七十五万円に減資す | ||
6月20日 | 中井栄三郎氏、八木清太郎氏取締役に就任 | ||
- | (上半期)本年上半期(自昭和八年十月一日至九年三月三十一日)の大半は印棉不買続行の為め印棉商内皆無なりしも昭和九年初、日印会商成立と共に印棉商内再開、期末に向ひ印棉大商盛を見たり、業績漸次良化、我社更生の曙光見ゆ | ||
- | (下半期)本年下半期に於ては印棉、米棉、輸入激増、我社の取扱高も増加す//本年九月末日に経る第八十四期(下半期)決算の結果配当(年四分の割)復活す |