※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和8年(1933) | - | 【竜門社】青淵先生の遺言により渋沢家から曖依村荘を受贈する。財団法人渋沢青淵翁記念会が東京・常盤橋公園に青淵先生の銅像を建てる。 | 渋沢関係略年譜 |
2月24日 | 一〇代目妻死去六三歳(宝光真照大姉) | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | 三井財閥、方向転換を発表 | 社会・経済・文化 | |
昭和9年(1934) | - | 【渋沢敬三】日本民族学会理事就任。 | 渋沢関係略年譜 |
5月9日 | 一一代目長女和子生まれる | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | 武藤山治狙撃される | 社会・経済・文化 | |
昭和10年(1935) | - | 【渋沢敬三】日本女子大学評議員就任。 | 渋沢関係略年譜 |
11月15日 | 一一代目長男明義(のち一二代、現社長)生まれる | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | 松下電器産業設立 | 社会・経済・文化 | |
昭和16年(1941) | - | 【渋沢敬三】全国貯蓄銀行協会会長に就任。第一銀行副頭取に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 太平洋戦争がはじまり、統制経済施行により物がなく、“にんべん”も事実上開店休業の状態となる。 | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | 一一代目日本鰹節統制株式会社社長を兼任する | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | 太平洋戦争勃発 | 社会・経済・文化 | |
昭和19年(1944) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』669号を発行、以後休刊する。岩波書店より『渋沢栄一伝記資料』第1巻が刊行される。【渋沢敬三】結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。総裁時代一度も東京を離れず。 | 渋沢関係略年譜 |
11月24日 | B29東京初空襲で店舗類焼する | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | インパール作戦失敗 | 社会・経済・文化 | |
昭和23年(1948) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』677号をもって廃刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 店舗新築し社名を株式会社にんべんに変更して、商売再開。 | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | 新商品“鰹でんぶ”を発売する | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | 政府、経済安定一〇原則を発表しデフレ政策に転換 | 社会・経済・文化 | |
昭和26年(1951) | - | 【竜門社】文部省史料館に日本実業史博物館準備室資料を寄託する。機関誌『青淵』を渋沢青淵記念財団竜門社から発刊する。【渋沢敬三】追放解除。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 一一代目健康を害し、高津致道《むねみち》が三代目社長に就任。致道は、八代目長男竜五郎の次男で、一一代目のいとこにあたる人。 | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | この頃より、戦中・戦後の痛手を着実に取りかえしていく | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | ILO、日本の加入を承認 | 社会・経済・文化 | |
昭和30年(1955) | - | 【竜門社】渋沢栄一伝記資料刊行会、『渋沢栄一伝記資料』第1巻を刊行する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 一〇代目長女あさの婿養子・高津農夫也が四代目社長に就任し、これまでの本店主義より、売店を出す方針に変える。最初に新宿“伊勢丹・志にせ街”に出店、また、卸売りをはじめる。削り節工場もつくり積極経営策を打出す | “にんべん”とかつお節の歴史 | |
- | マーケティングの概念が「市場調査」と同意義として導入されはじまる | 社会・経済・文化 | |
昭和32年(1957) | - | 【渋沢敬三】第16回ICC総会に日本代表団団長として出席のため渡欧。外務省顧問に就任、「移動大使」として中南米諸国を歴訪。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 日本橋“高島屋”“東急”、渋谷“東急東横”、名古屋“オリエンタル中村”等につぎつぎと出店し、お客様の手近な店で気軽にお買物できるようになる。当時、有名なしにせは古くからの伝統が崩れることを恐れ、デパートへの出店を渋っている中で、先駆的に出店に踏み切り成功をおさめたことは、当時としては経営者の大英断といえる | “にんべん”とかつお節の歴史 |