(株)浅沼商会『浅沼商会百年史』(1971.10)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
明治26年(1893) - 【渋沢栄一】喜賓会創立・幹事長。東京人造肥料株式会社取締役会長。株式会社東京石川島造船所取締役会長。王子製紙株式会社取締役会長。帝国ホテル株式会社取締役会長。 渋沢関係略年譜
- 次男善之助英国を経て米国に渡り、ニューヨーク、ブロードウエー五九一番アンソニー商会に入社して販売業務に従事す。
- イーストマンのソリオ紙を輸入。
明治27年(1894) - 【渋沢栄一】東京瓦斯株式会社取締役会長。東京海上保険株式会社取締役。北越鉄道株式会社創立発起人。札幌麦酒株式会社取締役会長。 渋沢関係略年譜
12月21日 善之助病を得て帰国、十二月二十一日死去、十八歳。
明治28年(1895) - 【渋沢栄一】東京統計協会終身会員。北越鉄道株式会社創業総会・監査役(後に相談役)。〔55歳〕 渋沢関係略年譜
- 乾板研究のため再度吉田勝之助を米国に派遣。
- 第四回内国勧業博覧会にアートタイプ印刷機と石版印刷機械を出品、有功進歩賞を受く。
明治29年(1896) - 【渋沢栄一】日本精糖株式会社創立・取締役。東京興信所創立、評議員。東京銀行集会所会長。東京印刷株式会社設立・相談役。東洋汽船株式会社創業、監査役。東京建物株式会社創立発起人。第一国立銀行が営業満期により株式会社第一銀行となる。引続き頭取。汽車製造合資会社設立・創立委員(後に監査役)。北越石油株式会社創業・相談役。日本勧業銀行設立委員。〔56歳〕【渋沢敬三】父・渋沢篤二、母・敦子の長男として都内深川に生まる。 渋沢関係略年譜
9月12日 市田左右太氏死す。五十四歳。 [関係事項?]
- 日本橋室町三ノ九に支店を設け、支店長に栗原勝之助を任命す。
- 光村利藻氏より〔写真新報〕の再刊を祝して挿入写真一〇〇〇枚寄贈さる。
明治30年(1897) - 【渋沢栄一】澁澤倉庫部開業、営業主(後に澁澤倉庫株式会社発起人)。日本女子大学校創立委員会計監督(後に校長)。十勝開墾合資会社業務担当社員。広島水力電気株式会社創立、取締役会長。渋沢家洲崎養魚場開設。 〔57歳〕 渋沢関係略年譜
2月28日 五女みつ出生。
3月20日 妻けい死去。四十歳。
- 独逸シエリング製薬会社の一手販売権獲得。
- ソーントン・ピッカードのシャッター、シエリングのコロジオ・コロライド紙、ジエラトイドPOPを輸入。
- 本所横網町に台紙工場を新設、工場長に浅沼治を任命す。
- 独逸カール・エルンスト社と取引開始。
明治31年(1898) - 【渋沢栄一】浅野セメント合資会社監査役。韓国視察、韓国皇帝に謁見。王子製紙株式会社取締役会長を辞す(後に相談役)。〔58歳〕 渋沢関係略年譜
5月 英国エリオット父子商会エリオット氏来店、バーネット乾板、POP、臭素紙の一手販売契約を結ぶ。
12月30日 〔浅沼図解目録〕を発行。
- 吉田勝之助帰国、再び深沢要橘氏と協力して〔日の出乾板〕を製造発売す。
- 浅沼東吾、窪田善助長女ゆかと結婚。二月三日、日本橋柏木に披露宴を開く。
- 白金アリスト紙、ネペラ紙を輸入。
- 京橋区柳町に東京輸出入合資会社を設立。
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