※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月4日 | 製鉄所頭取青木休七郎外一四名連署を以つて長崎府判事井上聞多宛食禄返上の願書を提出 | 重要事項 | |
8月19日 | 大政官布告「管船令」発布 | 参考事項 | |
11月2日 | 海軍局を東京築地に設置 | 参考事項 | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月9日 | 小菅船架を英商トーマス・ブレーキ・グラバより洋銀一二万弗を以つて買収し長崎製鉄所の付属とした 工場用地五、四四三坪 初代船架長平野富次郎 | 重要事項 | |
4月 | 大政官に民部官を置き 水陸運輸の事務を掌らしめる | 参考事項 | |
8月1日 | 長崎府判事製鉄所に命じて浜町より築町に通ずる鉄橋を架設す 工費六、〇〇〇余両 本嚆邦鉄橋架設の嚆矢である | 重要事項 | |
8月1日 | 頭取本木昌造は上海の米人ガンフルに活版機械を註文し、本与善町唐通事務所跡に長崎製鉄所附属として活版所を設置す 吾国活版術の濫觴である | 重要事項 | |
10月 | 西洋型風帆船蒸汽船購入奨励達示 | 参考事項 | |
- | 汽船購入の検査令布告 | 参考事項 | |
- | 横須賀、横浜製鉄所は民部大蔵両省の所管となる | 参考事項 | |
- | 沼津兵学校(静岡藩立)「蒸汽器械書」、「海軍蒸汽器機関」を出版 | 参考事項 | |
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月1日 | 回漕会社設立され政府船を委託、東京大阪間航路に従事す 本邦最初の汽船会社である | 参考事項 | |
2月2日 | 大阪城内丸廩跡に造兵司を置き長崎製鉄所の機械職工(模工、鋳工、旋工、鍛工)を選抜 | 重要事項 | |
10月9日 | 岩崎弥太郎「土佐開成商社」を開設 | 重要事項 | |
10月19日 | 土佐開成商社を「九十九商会」と改称、三菱商会の前身である | 重要事項 | |
- | 立神修船場廃業に対し平野富次郎建議書を差出す | 重要事項 | |
- | 立神浦に乾船渠築造方を平野富次郎建議し許可を得て着工のこととなる | 重要事項 | |
- | 西洋型船所有保護令発布 | 参考事項 | |
- | 商船規則制定 | 参考事項 | |
明治4年(1871) | - | 【渋沢栄一】大蔵省紙幣頭となる。神田小川町裏神保小路(現在の東京都千代田区神田神保町)に転居。『立会略則』刊行。〔31歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月9日 | 長崎製鉄所は工部省の所管となり「長崎造船所」と改称 工部省の設置と同時に製鉄所、小菅船架とも長崎県より同省に引継ぎ平野富次郎は本官を辞す | 重要事項 |