三菱造船(株)長崎造船所『創業百年の長崎造船所』(1957.10)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
1854年 - 薩藩「昌平丸」起工(3檣) 参考事項
- 姉妹船を建造「鳳瑞丸」「太元丸」 参考事項
- 薩藩の学頭、蘭学の大家川本幸民、汽船の機巧を審にし、松本恒菴(後の伯爵寺島宗則)、蘭国の造船書、舶用機関書を口訳し、薩藩の造船製造を指導 参考事項
安政2年(1855) 6月8日 蘭国王ウィリヤム3世、スームビングを幕府に献上(安政3年4月「観光」と改称)、長崎にて授受(外輪汽船、スクーナ、コルベット、長170呎、巾30呎、150馬力、3檣、1850年、オランダ、ワレシング市にて建造) 参考事項
7月 長崎鎔鉄所建設の議起る 重要事項
7月 幕府、長崎に海軍伝習所を起す(この計画に本木昌造個人的に関係す) 参考事項
8月14日 薩藩「昌平丸」を幕府に上納 参考事項
10月2日 江戸大地震 参考事項
12月 海軍伝習生長崎到着、勝麟太郎、矢田堀景蔵ら幕臣37名、大工職2名、他に諸藩の有志者129名、教場は長崎西奉行所(担任者、永井玄蕃頭) 参考事項
12月 蘭国と和親条約締結 参考事項
- 幕府は蘭国王贈呈の軍艦1隻を受領しその後艦船の購入、或いは製造漸く多く、またこれら艦船の修理を考慮、長崎に工場創設を企図し、蘭国より教師その他職方を聘し、同時に必要器具、機械等の購入を長崎奉行岡部駿河守に下知す。長崎造船所の起源胚胎す 重要事項
- 蘭国造船株式会社が1855~1865の10年間に日本長崎に引渡した貨物は、舶用蒸汽機関3台、陸上機関4台、工作機械25台であった(蘭国WILTON FIJENOORD 1854~1954百年史より抜萃) 重要事項
- 「観光」に日本海軍最初の軍艦旗を掲揚//幕府は「観光」を練習艦としスームビング乗組員14名(士官3名、機関官2名、主計官1名、準士官3名、下士以下5名)を招傭し教育にあたらしむ(明治元年廃艦、9月3日解船) 参考事項
安政3年(1856) - 【渋沢栄一】父の代理で領主安部摂津守の岡部の陣屋で用金の命を受ける。代官が傲慢で栄一を侮蔑、圧制に痛憤し封建の弊に強烈な反感を持つ。〔16歳〕 渋沢関係略年譜
- 海軍伝習生第2回募集学生12名(全員幕臣)、長崎到着、榎本釜次郎(後の海軍大臣榎本武揚)、肥田浜五郎(後の海軍機技総監)ら在学 参考事項
安政4年(1857) 3月 永井玄蕃頭、伝習所第1期生の内16名(教授方8名、教授方手伝8名)を引卒、観光丸にて長崎出帆(江戸より木村図書到着。永井監察と交代) 参考事項
4月 「軍艦操練所」を築地講武場内に開設(所長、永井玄蕃頭、教頭矢田堀景蔵) 参考事項
5月 下田条約締結 参考事項
7月 長崎大波止造船場にてカッター竣工。蘭人指導のもとに伝習生建造す。(「長崎形」木製、長12間、巾3間、帆、1檣) 参考事項
8月5日 幕府、蘭国へ依頼の軍艦ヤッパン長崎入港(1856年、蘭国カンテルク市にて建造、機関の一部は蘭国造船株式会社(NSM)製作、蒸汽内車、スクーナ、コルベット、長163呎、巾24呎、100馬力、3檣、後「咸臨」と改称)、W.J.C.リッダ・ハイセン・ファン・カッティンディッケ指揮の蘭国艦隊護送、機関長ハー・ヘルデス、軍医J.L.C.ポンペ・ファン・ミールデルフォルトほか新教師、将校、准士官、下士官ら37名来崎 参考事項
8月25日 長崎鎔鉄所取建方伝習掛として、御役所付触頭、山本惣次郎外6名就任 重要事項
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