※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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安政6年(1859) | 5月 | 飽ノ浦工場創設のころ瓊浦形と称する汽船を製造(長15間、巾3間)、わが国汽船建造の嚆矢//造船所を兼ねた海軍伝習所(軍艦操練所)を廃止、長崎鎔鉄所に合併 | 重要事項 |
6月 | 五国条約により神奈川・長崎・函館の3港を開港 | 参考事項 | |
6月 | 長崎出島のオランダ商館を閉鎖 | 参考事項 | |
8月22日 | 長崎奉行岡部駿河守、蒸汽機関工場を参観、蒸汽鎚の打初式を行なう | 重要事項 | |
- | 海軍伝習所閉鎖の主因は、当時、江戸幕府の最も困難な時代で北米と本条約書交換のため使節派遣の必要が目前に迫り一方露艦、英艦など再渡来し、世情騒然、内憂外患の最高度に達した時代で、伝習生の業もほぼ熟練し、長崎の地が首府より離れ不便多く、安政4年、江戸築地講武場に軍艦操練所を設け漸次のり出したためである(日本近世造船史) | 重要事項 | |
安政7年(1860) | 1月18日 | 遣米使節新見正興ら咸臨丸で出発、10月15日帰国 | 参考事項 |
3月3日 | 桜田門外の変 | 参考事項 | |
1860年 | 5月 | 長崎小島郷に養生所設置(長崎大学医学部付属病院の起源) | 参考事項 |
- | 日本・ポルトガル通商条約締結 | 参考事項 | |
万延元年(1860) | 11月 | 本木昌造、長崎鎔鉄所御用掛任命(37歳) | 重要事項 |
12月12日 | 長崎奉行岡部駿河守、ハルデスらとともに、長崎鎔鉄所の上棟式を行ない、「長崎製鉄所」と改称、据付を終った。一切の機械代、銀554貫562匁7分5厘 | 重要事項 | |
12月 | (末) ハルデス解雇、帰国 | 重要事項 | |
万延2年(1861) | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 備後鞆津にて「順風」建造(バーク、木製、長132呎、巾25呎、深24呎、90噸、帆) | 参考事項 | |
文久元年(1861) | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月25日 | 長崎製鉄所工場竣工、機械据付完了 | 重要事項 | |
3月28日 | 長崎製鉄所落成式挙行(飽ノ浦造機工場の前身) | 重要事項 | |
3月 | 浦上村淵立神郷に軍艦製造所新設の議起り軍艦打建掛を設置 | 重要事項 | |
6月19日 | 庶民の大船建造、外国船購入を許可 | 参考事項 | |
1861年 | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 平野富次郎(富二)、長崎製鉄所機関手見習仰付 | 重要事項 | |
- | 日本最初の軍艦用汽缶を起工、千代田形の円筒形鉄製汽缶として文久3年竣工 | 参考事項 | |
- | 日本・プロシア通商条約締結 | 参考事項 |