※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
---|---|---|---|
1861年 | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 最初のイギリス装甲艦ウォーリア建造 | 参考事項 | |
文久2年(1862) | 5月7日 | 幕府、石川島にてわが国最初の軍艦「千代田形」起工(スクーナ、木製、長97呎、巾16呎、吃水6.8呎、60馬力、138噸、砲艦、螺、汽、2檣) | 参考事項 |
8月21日 | 生麦事件 | 参考事項 | |
11月 | 長崎奉行大久保豊後守、軍艦打建ならびに修船場取建などに蘭国職人14人呼寄せ方を幕府へ出願 | 重要事項 | |
- | 幕府、軍鑑所を設け、軍艦奉行をして船舶行政を掌らしむ | 参考事項 | |
文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 長崎奉行、服部左衞門佐、浦上村淵立神郷に軍艦打建所創設のため、海面12,160坪を埋立て、その基礎を作らんとしたが、神戸海軍練習所に軍艦製造局設置のこととなり、飽ノ浦製鉄所も操練所の付属となったので、立神軍艦製造所を造船場と改称、建築工事を継続した(立神造船工場の前身)。なお、ここに船渠築造の予定であったが中止し、機械器具類一切を製鉄所に移管した | 重要事項 | |
4月24日 | 幕府、摂州神戸村に海軍操練所を設立 | 参考事項 | |
5月9日 | 幕府、イギリスと、ロンドン覚書調印 | 参考事項 | |
5月10日 | 長州藩、下関で米商船を砲撃 | 参考事項 | |
6月5日 | 長崎製鉄所、神戸操練所の付属となる | 参考事項 | |
7月2日 | 石川島にて建造中の「千代田形」進水 | 参考事項 | |
7月2日 | 英艦、鹿児島を砲撃(薩英戦争) | 参考事項 | |
11月 | 長崎奉行は新規に軍艦打建のため船材伐出し方について、西国筋代官所ならびに預所役人へ御達し方を御勘定奉行へ願出た//御勘定奉行より、船材伐出し方に日向椎葉山およびその最寄りの諸山を調査の上、模様により天草御料林見分けを長崎奉行へ指示した | 重要事項 | |
文久4年(1864) | - | 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 立神の軍艦打建所を「立神造船場」と改称 | 重要事項 | |
元治元年(1864) | - | 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月7日 | 長崎奉行服部左衞門佐に、製鉄所雇、蘭人造船師カール・レーマン、造営師シャルレス・レミーは、鋼鉄鋳物場新規取建の件、および軍艦打建所、製鉄所の不足機械を蘭国へ誂え方を伺い出た | 重要事項 | |
8月 | 英・米・仏・蘭・艦隊、下関砲撃、英人ホワイトヘッド、自動式魚形水雷製作 | 参考事項 | |
11月10日 | 幕府は仏国公使レオンロセス斡旋の下に相州横須賀村に船廠を、武州横浜本村に工廠の建設を諮詢せしむ | 参考事項 | |
元治2年(1865) | - | 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 横浜製鉄所起工、9月工事完了 | 参考事項 | |
9月 | 横須賀造船所起工 | 参考事項 | |
慶応元年(1865) | - | 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 長崎製鉄所の経営困難につき本木昌造が改革意見を提出 | 重要事項 |