三菱造船(株)長崎造船所『創業百年の長崎造船所』(1957.10)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
安政4年(1857) 9月 蘭人の新旧教師交代//江戸より第3期生26名(全員幕臣)来崎、赤松大三郎(後の海軍中将男爵赤松則良)、松本良順(後の陸軍軍医総監松本順)、沢太郎左衛門ら在学 参考事項
10月10日 長崎浦上村淵字飽ノ浦の地に鎔鉄所設立に着手、工事は御雇蘭人機関長ハー・ハルデス総指揮による//鎔鉄所惣地所 3840坪16 付属地所 5200坪12 合計 9040坪2合8勺//御雇蘭人名 教師ハー・ハルデス ただし当年より4ヵ年雇入、1ヵ月洋銀300枚ずつ、万延元年12月解雇、帰国//機械方 アーケン、ラスコイト ただし上2名1ヵ月洋銀120枚ずつ(文久元年解雇、帰国)//轆呂職 ヤンセン、ビュルゲル、ハーフィンキ 鑢子職 ウヰルデブール 鍛冶職 マイソル 銅細工職 ワイエンフルーク 木形職 フェルテカンフ 造缶職 アンデレース ただし上8名1ヵ月洋銀61枚ずつ(文久元年解雇、帰国) 重要事項
- サラサンド(1845年竣工)の船火事、防水壁によって延焼を防ぎ、鉄材の優秀性を証明 参考事項
安政5年(1858) - 【渋沢栄一】従妹尾高千代(ちよ、尾高惇忠の妹)と結婚。〔18歳〕 渋沢関係略年譜
3月 ハルデス以下蘭人、鎔鉄所付近に仮住居の件出願 重要事項
4月11日 長崎大波止にて「晨風丸」船卸(カッター、木製、長72呎、巾19呎、深14呎、50噸、帆、1檣、安政4年11月11日起工)(佐賀藩造船史) 参考事項
4月 蘭国教師飽ノ浦梅岸に長33間、巾18間、水平面上2間、水平面下4間の大船修復場築設の必要を奉行に建議す 重要事項
5月 幕命により建造の「朝陽」長崎に入港(蒸汽内車、長163呎、巾24呎、100馬力、砲12門、1856年、蘭国カンテルク市にて建造) 参考事項
6月19日 日米通商条約締結 参考事項
7月5日 英艦品川に入港、ビクトリア女王、エンペロル(蒸汽内車、長153呎、巾22呎、深9.6呎、128馬力、砲4門、英国ブリキウヲル建造)を、幕府に献上(後に「蟠龍」と改称) 参考事項
7月 外国奉行を設置、蘭・露・英と通商条約締結 参考事項
7月 入港中の英船よりコレラ病、長崎市中に伝播 参考事項
8月 安政の大獄(~10月) 参考事項
9月 日仏通商条約締結 参考事項
- 長崎鎔鉄所は鍛冶場、工作場、鎔鉄場の3工場に始まる//鍛冶場 間口(邦尺)4丈7尺8寸1分、奥行7丈6尺4寸//工作場 間口(邦尺)15丈4寸、奥行8丈3尺3寸3分5厘 重要事項
- 鎔鉄場の間口(邦尺)33丈、奥行24丈、この鎔鉄所築設はことのほか難工事で、沼地を埋立て、数千本の打杭をなし、建物を建て、ナスミス・スチーム・ハンマを運転、12基の鎔鉄炉をハルデスが訓練した鍛冶工にて運営、鋳造作業を行ない、旋盤ボーリング・マシンが蒸汽で動き、蒸汽機関やボイラも製作できる工場であった(蘭国軍医J.L.C.ポンペ・フォン・ミールデルフォルト回顧録) 重要事項
- 函館にて「箱館丸」「亀田丸」建造(スクーナ、木製、長108呎、巾24呎、帆、2檣) 参考事項
- 姫路にて「速鳥丸」建造(スクーナ、木製、長15間、巾3間、45石) 参考事項
- グレートイースターン進水、19世紀末まで最大の航洋汽船(27,384噸) 参考事項
安政6年(1859) 2月 長崎海軍伝習所閉鎖 参考事項
2月 (末) 長崎海軍伝習所教師一行帰国(但軍医ポンペ、機関長ハルデスほか数名滞在) 参考事項
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