研究ノート
渋沢社史データベースの可能性:“渋沢栄一”検索を例に / 門倉百合子

初出:渋沢研究会編『渋沢研究』第28 号(渋沢史料館, 2016 年1 月)p47-61
[本稿は著者、編者および出版者の了解を得て転載するものです。 なお、HTML版では年月日や回次を示す漢数字はアラビア数字に直しました。]

[PDF版(609KB)]

掲載:2016 年3 月15 日

はじめに

 企業の歴史を記した出版物である社史は、明治以降の日本でこれまでにおよそ1万5千点刊行されている〔註1〕。その中には出版した企業の歴史のみならず、森羅万象に関する様々な事象が記載されている。しかし社史は企業の周年行事の記念に刊行されることが多く、社員や取引先などに配布され一般の書籍市場に出回ることはほとんどない。たとえ手に入ったとしても索引のある社史は稀で、その内容を詳しく探索することはままならない。
 このように豊富な内容にもかかわらずアクセスの難しい社史を横断的に検索するために、公益財団法人渋沢栄一記念財団(以下、渋沢財団)では「渋沢社史データベース」(Shibusawa Shashi Database=略称SSD)を2014年4月に公開した。SSDには渋沢栄一が関わった会社〔註2〕の社史を中心に、約1500冊の社史のデータを収録している。そこでこのデータベースで“渋沢栄一”を検索すると、どのような結果が得られるだろうか。
 一方である人物を研究しようとするとき、まずその伝記が手がかりになるだろう。渋沢栄一の生涯を俯瞰する伝記はこれまでに何種類も刊行されてきた。しかしその多くは栄一の前半生に焦点があてられており、実業界に身を投じて以降の壮年期から晩年の栄一を詳細に語るものは少ない〔註3〕。また「論語と算盤」に代表される栄一の経済倫理に関する著作も近年多く出版されているが、経済活動の実態に詳しく触れた資料は少ない〔註4〕。そこでもし、栄一が関わった会社の社史を研究の素材として縦横に使うことができれば、栄一研究のすそ野が広がるのではないだろうか。
 本稿では以上のような問題意識の下に、SSDを“渋沢栄一”で検索し、栄一が各社の社史の中にどのように登場しているか事例を示し、SSDの可能性について考察した。なお筆者はこのデータベースの構築全般を担当した〔註5〕。
 本稿の構成は、まず1.で渋沢栄一が関わった会社とその社史の全体像をみる。次の2.でSSDの概要と栄一関連会社の社史をまとめる。更に3.で実際にSSDを“渋沢栄一”で検索した事例を紹介する。そして4.結論として、SSDの可能性と歴史研究への展開について述べる。

1.渋沢栄一が関わった会社とその社史

(1) 渋沢栄一が関わった会社

 渋沢栄一は生涯に約500社に関わったといわれており〔註6〕、その全体像は『渋沢栄一伝記資料』(渋沢栄一伝記資料刊行会、1955~1965)(以下『伝記資料』)にまとめられている。『伝記資料』には各社が出版した多くの社史が引用されているが、では関わった会社はそれぞれどのような社史を出しているだろうか。
 これまでに刊行された社史にどのようなものがあるかを調べるには、社史を所蔵する機関の目録データをまとめた総合目録を見ることになる〔註7〕。この総合目録には、会社名順に社史が整理されている。そこで栄一が関係した会社の社史を調べるためには、会社名がキーになる。
 一方で『伝記資料』に栄一が関わった会社として挙げられている約500の社名は、栄一が関わっていた時代の名称である。栄一の名前は彼が存命中に出版された社史だけでなく、それ以降の時代に刊行された社史にも登場することは容易に想像がつく。そして栄一が関わった会社の多くは合併や分離等で社名が変遷しており、栄一関連会社の社名変遷の全貌は、次に述べる「渋沢栄一関連会社社名変遷図」にまとめられている。

(2) 「渋沢栄一関連会社社名変遷図」掲載会社

 渋沢財団がウェブサイトで公開している「渋沢栄一関連会社社名変遷図」(以下「社名変遷図」)には、『伝記資料』総目次掲載の会社一つ一つについて、栄一が関わった事業分野ごとに会社の社名変遷データがまとめられている。2015年7月現在、『伝記資料』の事業分野順に122図が掲載されている。
 「社名変遷図」では、A「栄一が直接関わった会社」、B「事業を継承あるいは名称が変遷した会社」、C「それ以外の会社」の三種類に社名を色分けしている。C「それ以外の会社」とは、A「栄一が直接関わった会社」およびB「事業を継承あるいは名称が変遷した会社」の合併先の会社や、その前身、後身の会社などである。栄一が関わった事柄は、合併先の会社の社史に掲載されている場合もあるので、「社名変遷図」掲載の会社の社史はいずれも栄一研究の素材となりうる。2015年7月現在の掲載会社数は、A「栄一が直接関わった会社」522社、B「事業を継承あるいは名称が変遷した会社」289社、C「それ以外の会社」721社、合計1,532社である。合計には2図以上に登場する重出会社も含むが、その数はわずかである。

(3) 渋沢栄一関連会社の社史の全貌

 「社名変遷図」に掲載の栄一が関わった会社のうち、どの位の社が社史を出しているかは、社史の代表的な総合目録である『会社史総合目録 増補・改訂版』(日本経営史研究所、1996)で調べればわかる。そこにはA「栄一が直接関わった会社」522社のうちの78社、B「事業を継承あるいは名称が変遷した会社」289社のうちの104社の社史が掲載されている。Aでは15%、Bでは37%の会社が社史を出していることになる。栄一が直接関わった会社の中には短期間で消滅したものも多々あり、それらの会社は社史を出すには至らなかったであろう。また栄一が直接関わった会社自体は社史を出していなくても、後身の会社のほうが多く社史を出していることになる。
 では次に、それらの会社がどのくらいの数の社史を出しているだろうか。一つの会社が50年史、100年史と何回も社史を刊行しているのはよくあるケースである。『会社史総合目録 増補・改訂版』では、Aの社史有78社が出した社史は320冊が確認できた。そしてBの社史有104社が出した社史は328冊が確認できた。C「その他」の会社については未調査である。なぜなら、合併先の後身の会社はともかく、前身の会社の社史に渋沢栄一に関する記述がある可能性は低く、関係性が不透明なためである。Cの会社はあくまで参考情報であり、網羅的にその社史を調べる意味はあまり高いとはいえない。
 では、これらの社史の中に渋沢栄一はどのように登場するであろうか。この疑問の解決には、次に紹介する「渋沢社史データベース」が有用である。

2.「渋沢社史データベース」と渋沢栄一関連会社の社史

(1) 「渋沢社史データベース」とは

 渋沢財団が2014年4月に公開した「渋沢社史データベース」(SSD)は、社史1冊ごとの「目次」「索引」「年表」「資料編」のデータを集積したデータベースである。著作権のある本文は入っていない。2015年3月にデータを追加し、現在1,535冊の社史から約230万件のデータを収録している。すべてのデータを横断検索することが可能で、該当データを掲載している社史を探すことができる。採録した社史は、「社名変遷図」掲載の会社のものを中心に、各業界の代表的企業のものをできるだけ選択してあり、会社数は829社にのぼる。

(2) SSDにおける渋沢栄一関連会社の社史

 栄一が関わった会社のうち、どの位の社が社史を出しているかは先に述べた通り、A「栄一が直接関わった会社」522社のうちの78社、B「事業を継承あるいは名称が変遷した会社」289社のうちの104社、合計182社である。SSDにはこれらの会社のうち、58%にあたる107社の社史を収録している。そしてAの社史有78社が出した社史320冊のうちSSDには172冊を、Bの社史有104社が出した社史328冊のうちSSDには185冊を収録した。全体の収録割合は55%になる。
 SSDに収録していない社史には、総合目録に記載があっても戦前の稿本や資料集など、古書市場に出回っていないものがかなりある。また戦前のもので明治製糖(株)の『創立十五年記念写真帳』(1920)のように、同時期に刊行された『十五年史』(1921)とは別に、写真が中心の記念冊子なども含まれる。一方で社史と名がついても100ページ未満の会社案内など小冊子も多い。従って冊数では6割程度の収録率だが、正史といわれるような社史はかなりの割合で収録している。また今後入手できたものについては、できるだけ追加していく予定である。

(3) SSDに掲載した社史

 SSDに掲載した社史1,535冊について、渋沢栄一の関わり別の内訳は次の通りである。SSDには社名変遷図に未掲載の各社工場などの社史も収録しているので、冊数は(2)の調査結果より多くなっている。カッコ内は全1,535冊に対する割合を表す。

A:渋沢栄一が直接関わった会社の社史=199冊(13%)
B:Aの事業を継承あるいは名称が変遷した会社の社史=229冊(15%)
C:AB以外で「渋沢栄一関連会社社名変遷図」に載った会社の社史=282冊(18%)
D:「社名変遷図」には出てこないが、栄一あるいはABCと関連する会社の社史=357冊(23%)
E:上記以外の会社の社史=468冊(30%)

 A、B、Cの区分は調査済だが、DとEについては厳密な区分ではない。ある会社と栄一との関係があることは証明できても、逆を証明するのは難しいからである。あくまでも現在推測可能な限り、という注釈つきの区分である。次章で述べるように、現在でもEに区分した会社の社史の中に、栄一との関係を示唆する事項を発見することがある。

3.「渋沢栄一」をSSDで検索した結果

(1) フリーワードでの検索結果

 SSDはフリーワードでの検索ができるので、渋沢栄一がどの社史に登場するか、SSDを「渋沢栄一」で横断検索をしてみた。検索結果は次のとおりである〔註8〕。

〈1〉 ‌社史を検索(ワード検索):基本情報(182件)/目次(73件)/索引(110件)/年表(178件)/資料編(81件)(件数は社史の冊数)
〈2〉 年表項目を検索:514件(件数は年表項目の数)
〈3〉 索引語を検索:28件(件数は索引語の数)

 ではこの検索結果を一つ一つ詳しく見ていきたい。

〈1〉―1.基本情報

 「社史を検索」した結果のヒット件数は、社史の冊数を表す。検索結果にはまず日経業種〔註9〕別の円グラフが表示され、その下にヒットした社史が業種順にリストアップされている。
 「基本情報」とは該当社史の書誌情報などであり、検索対象は社史の「タイトル」「会社名」「出版年」「社史沿革と社史メモ」である。その中に「渋沢栄一」が含まれる社史は182冊あった。タイトルや会社名に「渋沢栄一」が現れることはなく、いずれも「会社沿革と社史メモ」(以下「社史メモ」)に「渋沢栄一」が登場している。この「社史メモ」は社史製作者が書いたものでなく、SSD作成時に渋沢財団が書き起こしたもので、各社と栄一の関係が簡潔にまとめられている。例えばリストの一番上の同和鉱業(株)『七十年之回顧』をクリックすると、「社史メモ」の中に「一方大阪で商社を営んでいた藤田組の社主藤田伝三郎は、渋沢栄一らと大阪紡績会社等を設立するなど経営を拡大、鉱山事業に乗り出す。」という一文を見ることができる。なお円グラフをクリックすると、該当の業種で検索結果を絞り込むことができる。

〈1〉―2.目次

 「目次」の中に「渋沢栄一」が含まれる社史は、73冊あった。一覧表の右欄には目次項目に現れる「渋沢栄一」がピックアップされている。一覧表は該当件数順だが、会社名順に並べなおすこともできる。また円グラフをクリックすると、先と同様に該当の業種で検索結果を絞り込むことができる。
リストの一番上の王子製紙(株)『王子製紙社史.第1巻』をクリックすると、該当する目次項目がまとめて現れる。栄一と関わりの深い王子製紙だけに、目次の7か所に栄一が登場している。右の「表示切替」で「全目次一覧」を選ぶと、目次全体の中で栄一が登場する箇所だけがハイライトされ、全貌を見渡すことができる。

〈1〉―3.索引

 「索引」の中に「渋沢栄一」が含まれる社史は、110冊あった。こちらも検索結果は業種別の円グラフと、該当数順の一覧表になっている。8件が該当した一番上の日本銀行『日本銀行百年史.第1巻』をクリックすると、該当する索引項目がまとめて現れる。「渋沢栄一」が様々な役割を果たしていたことが索引語をみるだけでも推定される。次に索引語をクリックすると、該当するページの目次項目が現れ、更に内容を推定することが可能である。続いて「ページ」の数字をクリックすると、その項目に含まれる索引語のリストが表示され、本文は現れないが内容をある程度推定することができる。

〈1〉―4.年表

 「年表」の中に「渋沢栄一」が含まれる社史は、178冊あった。こちらも検索結果は業種別の円グラフと、該当数順の一覧表になっている。一番多いのは(株)第一銀行『第一銀行年表』の18件で、栄一が頭取を務めていただけに当然と言えば当然である。社史タイトルをクリックすると、該当する年表項目が年月日順に現れ、1873年の第一国立銀行創立時から1931年に栄一が没するまで、彼の動向が年表に現れているのがわかる。
 右の「表示切替」で「全年表一覧」を選ぶと、年表全体の中で栄一が登場する箇所だけがハイライトされ、全貌を見渡すことができる。この年表部分には元の社史には掲載されていない「渋沢関係略年譜」が各年冒頭に追加されていて、栄一の足跡と該当社史の年表を同時に見ることができる。この点は渋沢栄一研究に大いに役立つのではないだろうか。

〈1〉―5.資料編

 「資料編」とは各社史の巻末や別冊にまとめられている統計や図表などのことで、SSDには各資料のタイトルや図表の項目名などを抽出して収録している。その「資料編」に「渋沢栄一」が含まれる社史は、81冊あった。こちらも検索結果は業種別の円グラフと、該当数順の一覧表になっている。リストの一番上のオーベクス(株)『オーベクス100年史』をクリックすると、栄一の訓示や写真が含まれていることがわかる。因みにオーベクス(株)は栄一が関わった東京帽子(株)が社名変更した会社である。該当社史の「基本情報」タグをクリックし、「社名変遷図」のリンク先を見ることで社名変遷を確認することができる。

〈2〉年表項目検索

 「社史を検索」で「渋沢栄一」が「年表」に出てきた社史は178冊だったが、今度は「年表項目検索」で「渋沢栄一」を検索すると、年表の中身が514件ヒットした。178冊の社史の年表項目から、栄一が登場した年月日を抽出すると514件になる、ということである。検索結果には100年間を機械的に五つに区切った20年ごとの件数棒グラフが出ていて、栄一のヒット数が最も多いのは1881~1900年の間の176件であり、その前後も140件前後とかなり多い。最も多い1881~1900年の間は栄一の壮年期であるが、社史の年表中にも最も頻繁に登場していたことがわかる。
 棒グラフをクリックするとその年代の年表項目に絞られた結果が下にリストされている。業種別の円グラフが現れるので、グラフをクリックし業種を絞って内容を見ることもできる。業種を絞らなければ各業界を横断して栄一の足跡を見ることが可能である。例えば1882年(明治15)には月日順に11項目があげられていて、繊維、パルプ・紙、電力、商社などの社史に栄一が登場している。ここから栄一が同時期に、いかに多くの事業に関わっていたかを知ることができる。更に社史名をクリックすると、当該社史の年表中に栄一が登場するところがハイライトで現れる。ここから先は「〈1〉―4.年表」と同様の操作になる。

〈3〉索引語検索

 「社史を検索」で「渋沢栄一」が「索引」に出てきた社史は110冊だったが、今度は「索引語を検索」で「渋沢栄一」を検索すると、28件の「索引語」がヒットした〔註10〕。この「索引語」は、索引付社史の索引に載っている言葉で、「渋沢栄一」のほかに「渋沢栄一伝記資料」など「渋沢栄一」という文字列を含む索引語がまとめて表示される。「渋沢栄一」という文字列のみが索引語となっているのは99冊の社史である。一覧をクリックすると、(株)大林組『大林組八十年史』(1972)から(社)日本工業倶楽部『日本工業倶楽部五十年史』(1972)まで、多種類の社史が現れる。社史名をクリックすると当該社史の「渋沢栄一」の登場するページが表示される。ここから先は「〈1〉―3.索引」と同様の操作になる。
 以上、SSDの中に「渋沢栄一」がどのように登場するか、フリーワードの検索結果をみてきた。SSDの「基本情報」「目次」「索引」「年表」「資料編」のいずれかに「渋沢栄一」が登場する社史の会社名を、日経業種順に並べたのが【表1】である。右列のA~Eは栄一との関係を示すもので、栄一が直接関わった会社だけでなく、実に多種類の会社の社史に栄一が登場することがわかる。

(2) 小売業の社史に見る渋沢栄一

 次に、社史の中に栄一が具体的にどのようにでてくるか、「小売業」を例に調べてみた。なぜ小売業かというと、「渋沢栄一と小売業」に関する近年の研究が見当たらないためで〔註11〕、そのような業界の社史にも栄一が現れる、という例である。
 「小売業」の社史で「渋沢栄一」が登場するのは、【表1】によると次の各社である。
 (株)ミキモト、栄養食(株)、(株)天賞堂、(株)町田糸店、(株)白木屋、(株)松屋、(株)明治屋。これらの社名は『伝記資料』58巻事業別年譜にはいずれも登場しない。かろうじて(株)ミキモトの前身である「御木本真珠」が第54巻に出てくるだけである。では各社の社史に栄一がどのように登場するか、それぞれについて栄一に関する記述を紹介する。

〈1〉(株)ミキモト

 真珠店の「(株)ミキモト」創業者御木本幸吉は1927年米国へ行く際、渋沢栄一から発明家エジソンへの紹介状を書いてもらった。『御木本真珠発明100年史』(1994)の「社史メモ」には、「幸吉が実業界で最も兄事した渋沢栄一」と記述されている〔註12〕。「目次」にも同様に「渋沢栄一らに兄事」と書かれており、御木本幸吉が栄一に私淑していた様子がわかる。

〈2〉栄養食(株)

 「栄養食(株)」は、栄一が関わった「洲崎養魚(株)」の管理人関直之の子孫が設立した、集団給食を請け負う会社である。『会社五十年の歩み』(1989)の「社史メモ」には、「第3部は著者自身の経営哲学で、渋沢栄一の訓言にも触れる。」とある〔註13〕。「目次」をみると、「第三部(九)ホ 私が大事にしている教訓」に、宗教、福沢諭吉、高田敏子と並んで「渋沢栄一先生の訓言」があげられている。

〈3〉(株)天賞堂

 「(株)天賞堂」は銀座の商店だが、『伝記資料』第29巻「第3部身辺」には、「明治39年12月(1906年)是月栄一、銀座ノ天賞堂ニ於テ、商業道徳ニ関スル演説ヲ蓄音器ノ音盤ニ録音ス。【634頁】」とある。天賞堂の社史『商道先駆:天賞堂五十年の回顧』(1939)の「社史メモ」には、「1904年(明37)米国コロムビア社の写声機(蓄音機)を発売しレコードも制作、音曲の内容を「美音の栞」として頒布する等、独創的販売方法で業績を伸ばす。[1906年には渋沢栄一が演説をレコードに録音している]」としてある〔註14〕。

〈4〉(株)町田糸店

 「(株)町田糸店」は、町田徳之助が浅草に創業した糸商である。『町田百二十年のあゆみ』(1983)の「社史メモ」には、「二代徳之助(1866~1952)は渋沢栄一始め多くの実業家の知遇を得て家業を発展させ、1909年(明42)の渡米実業団にも参加。」とある〔註15〕。『町田百年略史』(1965)の年表には、「1870年:初代(三十才)生糸買付の縁により渋沢栄一(後子爵)と相知る。」「1909年:二代(四十四才)アメリカよりの招請で、東京外四大都市の各商業会議所議員中より在京糸類商の代表として、渡米実業団の一員として八月末―十二月に亘りアメリカ、ハワイ視察旅行。団長は渋沢栄一氏で団員約四十名。」と、二代にわたって渋沢栄一と関係があったことが記されている。

〈5〉(株)白木屋

 「(株)白木屋」は日本橋にあった百貨店だが、『白木屋三百年史』(1957)「目次」の「第二部株式会社時代 近代百貨店への黎明 名士講話と勤続者表彰」の中に、「渋沢栄一の講話」という項目がある〔註16〕。目次全体をながめてみると、近代百貨店への歩みの中で広報宣伝誌を出したり少女歌劇を実施したりした延長に、名士講話があったと考えられる。渋沢栄一はこの白木屋の経営そのものに関わった記録は見いだせないが、自分が直接関係していなくても、依頼を受けて多くの会社団体等で講演を行った実態が社史に現れている例である〔註17〕。

〈6〉(株)松屋

 「(株)松屋」も銀座の百貨店である。こちらは『松屋百年史』(1969)「年表」の中に「1918年8月 東京臨時救済会(会長渋沢栄一)へ松屋呉服店代表者古屋徳兵衛千円寄付す(米価をはじめ一般物価騰貴にもとづく生活困難を救済するため有志相計って救済資金を募集)」と記されている〔註18〕。「東京臨時救済会」は『伝記資料』第30巻では、「大正7年8月15日(1918年)是年、世界大戦ノ影響等ニヨリ米穀其他ノ諸物価暴騰シ、各地ニ暴動勃発シ、是月十三日東京ニ波及ス。是日、東京臨時救済会組織セラレ、栄一之ガ会長ニ推サル。爾後同年十二月会務終了ニ至ル間、会務ニ尽瘁ス。【682~758頁】」と書かれている。栄一は企業活動だけでなく、社会公共事業に於いても様々な資金集めに奔走していたことが現れている。

〈7〉(株)明治屋

 「(株)明治屋」は輸入食品を扱う商店だが、こちらは『明治屋百年史』(1987)の「年表」に「1931年:11月11日 渋沢栄一没 」とあるだけである〔註19〕。自社のできごとでなく「社会の動き」の項目だが、栄一の逝去が当時の社会にとって大きな出来事であったことがうかがえる。

(3)年表項目に現れる渋沢栄一

 検索結果の三番目の事例として、「年表項目検索」を「年月日」で検索するとどうなるかを調べた。例として、渋沢栄一の亡くなった「1931年11月11日」を、「年表項目検索」で検索した。すると46件ヒットしたうちの28件が栄一の逝去に触れていた〔註20〕。日付までとっていない社史もあるので、「渋沢栄一」「1931年11月」と年表項目にいれて検索したところ、全部で43件ヒットした〔註21〕。「年表項目検索」はこのように、「フリーワード」と「年月日」を掛け合わせて検索できる。その結果15業種の43冊の社史の年表に記載されていることがわかった。ほとんどは栄一が直接関わった会社の社史だが、中には関係のはっきりしない三菱地所(株)『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史.資料・年表・索引』(1993)、尼崎築港(株)『尼崎築港70年史』(1999)、大塚製靴(株)『大塚製靴百年史』(1976)などもあった。
 今度は栄一の生まれた1840年はどうだろうか。「年表項目」に「渋沢栄一」「1840年」と入れて検索したところ、3件ヒットした〔註22〕。大塚製靴(株)、渋沢倉庫(株)〔註23〕、笹気出版印刷(株)の社史である。以下それぞれの社史に登場する栄一を述べる。

〈1〉大塚製靴(株)

 「大塚製靴(株)」は『伝記資料』58巻の事業別年譜に現れず、創業時の「大塚商店」の名称も『伝記資料』の款項目索引にはでてこない。しかし栄一は日本塾皮会社や桜組など製靴業にも深く関わっていたので、1872年創業の同業者である大塚製靴の社史には栄一の生没年が取り上げられていると推察される。

〈2〉渋沢倉庫(株)

 「渋沢倉庫(株)」は「渋沢」の名を現在も冠している唯一の会社で、栄一の生没年を取り上げるのは不思議ではない。『渋沢倉庫六十年史』(1959)、『渋沢倉庫の80年.2』(1977)、『渋沢倉庫百年史』(1999)のいずれの年表にも没年は登場する。生没年ばかりでなく、1882年の倉庫会社開業時や没後1993年の胸像除幕式の事も『百年史』の年表に出てきている。

〈3〉笹気出版印刷(株)

 「笹気出版印刷(株)」は仙台出身の笹気幸治が1921年仙台に創業した印刷会社だが、一般に知られた会社ではない。しかしこの会社が戦後『渋沢栄一伝記資料』の印刷を行ったのである。そのことが社史『妝匣の本質:ひたむきに生きる刷匠たちの念い〔註24〕』(2012)の年表に次のように出ている。「昭和29年(1954)12月 渋沢栄一伝記資料刊行会より第一巻の原稿を受領 以来全五八巻および補遺一〇巻合計六八巻を二〇年間にわたって作成。感謝状を授与される 本書は「朝日文化賞」受賞 」。目次をみると、「第六章 笹気出版の金字塔」の2番目に、「『論語と算盤』―『渋沢栄一伝記資料』にかけた二〇年」として取り上げられていた。

4.結論

 これまで本稿で調査してきたことをまとめると、次のようになる。

(1)渋沢栄一が関わった会社とその社史

 『会社史総合目録 増補・改訂版』によると、A「栄一が直接関わった会社」522社のうちの78社が社史を出していて、点数は320冊になる。またB「事業を継承あるいは名称が変遷した会社」289社のうちの104社が社史を出していて、点数は335冊になる。

(2)「渋沢社史データベース」と渋沢栄一関連会社の社史

 A「栄一が直接関わった会社」が出した社史320冊のうちSSDには172冊を、B「事業を継承あるいは名称が変遷した会社」が出した社史335冊のうちSSDには185冊を収録している。社名変遷図に未掲載の各社工場社史などを加えると、SSD収録はAでは199冊、Bでは229冊になる。

(3)「渋沢栄一」をSSDで検索した結果

 SSDで「渋沢栄一」を検索すると、【表1】のとおり数多くの会社の社史がヒットすることがわかった。しかもそれは、栄一が直接関わった会社やその後身会社のものばかりではない。栄一は関わりの判明しない会社を含め、実に様々な会社の社史に登場している。栄一が直接関係した会社の社史に「渋沢栄一」が登場するのはいわば当然のことで、それらの記述の多くは『伝記資料』に既に引用されていると推測できる。むしろ、栄一との関係が不確かな会社の社史に現れる「渋沢栄一」の方が、これまでに知られていなかった彼の事績に繋がる可能性がある。また栄一は各社の社史の中に、経営者としてばかりでなく、各時代を証言する様々な横顔を持って登場している。さらには各年代の象徴として、栄一が年表項目に取り上げられている場合も多い。
 「年表項目」の検索では、同時代の栄一の事績を横断的に見ることができるのが明らかになった。多くの社史の年表データを収録したSSDならではの成果である。「目次」「索引」「資料編」の検索結果は、いずれも社史の本文を参照しなければ詳細が不明だが、「年表」の記載事項はそれだけで完結して利用することが可能である。特定の年月日の出来事を横断的に見ることができるのは、歴史研究にとって大いに意味があるだろう。

 以上が本稿の調査で明らかになったことである。なおSSDは「渋沢栄一」だけを検索するデータベースではなく、近現代の日本社会をめぐる様々な事象の検索が可能である。実際2015年3月から6月までのアクセス解析によると、世界92ヶ国から7万6千を超えるセッション(ユーザーの訪問回数)があり、ページビューは45万回を超え月ごとに増えている。現在は日本語での検索しかできないにもかかわらず、数多くの利用がなされていることがわかる。SSDをぜひ「渋沢栄一」以外の言葉でも検索し、社史に含まれる情報を役立てていただければ幸いである。

【表1】「渋沢栄一」が登場する社史の会社名一覧

 別ウィンドウで表1を表示

謝辞

 本稿執筆に際しては、公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター企業史料プロジェクト担当の松崎裕子氏に有益な助言をいただいた。記して感謝申し上げる。

註 (ウェブサイトの確認はいずれも2015年7月30日)

(かどくら ゆりこ 公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター 専門司書)

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